day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

GRACE

【grace】
 1 優美。優雅。
 2 恩恵。恩寵(おんちょう)。

 
 日本という国がロストジェネレーションと呼ばれる世代を街に送り出していた時期に、古明地洋哉はデビューした。
 理想も野心も美意識もある一人の若者が、音楽の真実を掴み取ろうとしたその軌跡において、まるで自分自身を檻の中に閉じ込めるようにして、不穏な孤独に侵食されていく心を徹底的に見つめ続けた。90年代後半から2000年代の日本における、それは象徴的な一つの態度だったかもしれない。若者は、理性をなくしはしなかった。けれど、自分自身の心の一部が確かに変質してしまったのを、残った理性は理解していた。そこには、たった一人、立ち尽くすだけの自分がいた。夢想し、妄想する彼の前には、幻想や幻覚が立ち現れ、現実と入り乱れ始める。そして、誰に届くかも分からない独り言を呟いている。
 ただ、そうやってよるべなく立ち尽くす自分自身に、生のエネルギーは時に物憂げに、時に性急に湧き上がってくる。それは本来、喜びであるはずのものだ。けれど、若者にとっては、「何かをすり減らしてきた」という後悔、半ばは自分で自分に与えてきた痛み、勝手に遮断してきた「世界」に対する憎悪、美しい妄想への自負、そして膨れ上がった誇大妄想的な野心と、強迫観念の苦しみが、同時にやってくる。
 『the lost garden』という曲の美しさは、まさにそういった全てのものの奏でる美しさだ。そして、「世界」というものへの意識が、まるでレリーフのように彫琢されていく。「in my lost garden」と呟くとき、「僕は無口になってしまう」と囁くとき、「ロストガーデンの外」「普通だと思われている人々」という、つまり「世界」は、まるで下敷きの紙に写った鉛筆跡の線のように、映し出されている。


 『GRACE』と名付けられた曲は、ミニアルバム『mind game』の3曲目に収録されている。異様な美しさを持った曲だ。前奏から、馬車を思わせる断続的な木の軋みの音が、音楽の裏側でずっと鳴っている。そして、この曲はあまりにも純粋な3拍子で奏でられる。大胆であると同時に、あまりに奇妙で独特な雰囲気に満ち溢れている。
 古明地洋哉という表現者が、70年代後半に勃興し、80年代にニューウェイヴと呼ばれた、ある意味ではイギリスの正統的なロックと言える音楽の流れを、時も場所も隔てた2000年代の日本において継承しているというのは、その独自性の一面を裏付けているが、この曲が連想させるのは、70年代どころか、近代以前の中世西洋のフィーリングだ。その時代に漂う濃紺の闇と砂利道のイメージを、古明地洋哉は自身の世界観に、見事に当てはめているように思える。


 『GRACE』という単語の意味は、『讃美歌』という概念とおそらく通じている。古明地洋哉という人は一人ぼっちで、後悔も妄想も恥も過ちも抱えた自分自身を『讃美』することで、美しい曲を生み出してきた。
 そのような一人の表現者が、リリース上の沈黙に入って以来、近藤智洋、高畠俊太郎といったアーティストらとともにツアーを行っている。この中で新たな価値観を持った曲が生まれてきたのは、必然と言えると思う。

mind game

mind game