day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

day dream

 day dream ― 空想, 夢想, 白日夢;実現不可能な計画[想像]


 いろんな意味で象徴的なナンバーだ。

 
 僕が最初にこの曲を耳にしたのは、とある音楽情報サイトで特集されていた動画でだった。おそらくは、7年前。BARKSというサイトだったと記憶している。それは、メジャーデビューして、破竹の勢いで素晴らしい作品を作り続ける古明地洋哉に密着した、ドキュメント番組だった。
 

 古明地さんの新曲ができるまでを、カメラは追っていた。表現者としてのオーラに満ちた古明地さんは、その最初に、一曲のデモを披露された。ご自身のお持ちになったデモに対し、満足のいっているご様子だった。それが『daydream』で、連載方式になっていたその番組の主題歌としても使われていた。
 僕は、一度聴いただけで、この曲が大好きになった。
 それは当初、英詞で歌われていた。美しいサビのメロディーで「If you reary 〜」とたたみかけてくる歌詞は、聴き手をぐいぐい揺さぶる力を持っていた。


 しかしその後、そのドキュメント番組に映し出されていったのは、素晴らしい英詩の『day dream』が、制作者の希望によって日本語詞に書き換えられていくという、目を疑いたくなるようなものだった。僕は驚き、呆れ、怒り、そして脱力しつつ、その様子を見続けた。


 僕はこれについて思い出すたびに、表現者のインスピレーションの尊重という問題について、考えてしまう。


 その後、『daydream』がシングル化されることはなかった。かわりに、ベスト的なセルフカバーアルバムの一曲目を飾ることになる。
 セルフカバーアルバムの一曲目?
 僕は当時、それを不自然なことだと思った。
 今もそう思っている。

 
 CD音源となって聴いた日本語詞の『daydream』は、もちろん素晴らしかった。とても好きな曲だし、幻想的なフィーリングに満ちている。白日夢というのは昼に見るものだが、歌詞だけでなくメロディーラインや雰囲気といったこの曲の全てから想起されるのは、圧倒的な夜のイメージだ。とすれば、この曲の中をさまよう誰かは、夜に生きる何者かであるか、それとも昼間の世界を、少なくとも彼自身の認識においては、夜に塗り替えてしまうという、冒涜的で、背徳的な者だということになる。

 
 だけど、僕は自分がこんな風に批評家ぶって解釈することを、自分で憎らしく、いやらしく思う。そういう批評家的な視点が、あの場で、古明地さんの持つ豊かなインスピレーションに、強引に入り込んでいく様を、僕はあのとき見ていたのだから。


 いつか、英詞バージョンの『daydream』を、もう一度聴きたい。それが古明地さんの新作の中に入っていたら、僕はうれしい。

daydream

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