day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

嘆きの天使

孤独の音楽

孤独の音楽

 曲がスタートするとまず、超音波的なヘルツの高そうな音が耳に入ってくる。切羽詰ったドラムの音の上で、ピアノは水の上の舞踏のようにリズミカルに波紋を描いて跳ねている。その奥で鳴っている激しいベース音とシンセサイザーの高揚的な響きは、胸をわき立たせる。
 そんな風に、このメロディックで勢いのある曲は始まる。


 嘆きの天使
 叶わぬ恋をして
 やぶれた翼ふるわせ
 泣きじゃくって

 
 夜が明けるまでは
 夢を見ていたいんだって
 いつかは覚めると知っても
 すがり付いてさ
 泣き喚いてさ


 このメロディーの構築力はすごいと思う。音楽評論誌ではよくスピッツ草野正宗さんと比べられていたが、才能は全く異質のものだ。スピッツにおける空想性というのは、イラスト的なポップ芸術の流れを汲むものだ。歌のたたずまいはどこかユーモラスで、曲は前提的にフィクションとして成立している。それに、バンドという「社会」によって成り立っているものだ。


 古明地洋哉は、現実を足がかりにして、幻覚を立ち上がらせる。歌の主人公達からすれば、彼らが体験していることはノンフィクションだし、フィクションとするには歌い手がド真剣すぎる。つまり、ユーモアが欠如している。もちろん、ユーモアなんて必要ないんです。シリアスであればあるほど、快感が増幅する。


 『嘆きの天使』は、西洋的な幻想世界を連想させますが、サビ〜終奏の歌詞は、それまでの世界観と質感を異にしているようです。




   今も絶え間ない痛みの気配を手探りで感じながら

 
   (Shall we dance?
    Shall we dance?
    Shall we dance?)


   すれ違うばかりの世界だったとしても
   すれ違うばかりの世界だったとしても 


   when I see you agein…!
   when I see you agein…!


 これらの部分は、歌い手によるドキュメントになっているように思えます。それまで3人称で展開していた物語が、急に一人称めいている。そして、中世西洋ではなく、現代日本のフィーリングがある。
 歌い手は「嘆きの天使」の境遇に仮託しながら、精一杯の「君への希望」を歌っているわけです。しかも、「もう一度会えたら…」という、留保を最後に連呼して。つまり彼の心は現実へと向かわず、想いそれ自身を「讃美」している。


 音楽を追求するにあたり、必然的な成り行きで孤独を突き詰めていった古明地洋哉。社会からは隔絶し、心の洞窟を探求していくことになった。そんな孤独の静けさの中で見出すことになったモチーフが、「夜」であり、「宇宙」であり、「光という現象」であり、「宗教的世界」であり、「メルヘン」であり、「幻覚」であり、そして何よりも、自身の内部に湧き上がってくる「自然としての生命力」だったのでしょう。だからこそ、彼は「讃美」せずにはいられない。世界とうまくコミュニケートできなくても、不穏な幻聴と交信し、架空の銃を握り締め、自身の背中に見ている翼を「ハリボテだ…」と嘆きながらも、思い切りギターをかき鳴らし、声を振り絞らなくてはならなかったのでしょう。


 大好きなこの曲を、一度はライブで聴きたい。それも、僕の楽しみの一つです。