メランコリー(part 1)
- アーティスト: 古明地洋哉
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2003/04/23
- メディア: CD
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暗闇の中を、移動していく心。春の風が吹いている。徐々に淡い光が見えてくる。
ゆったりと絶妙のアルペジオを奏でるアコースティックギターの魅力的な一音一音は、憂いと熱さと輝き、そしてその奥にある闇のイマジネーションを否応なく心象に喚起させる。胸を甘く疼かせる悦楽は、メランコリーというその題に相応しい。暖かく、ノスタルジックなものの感触を、胸に確かめる。
風がまた吹き過ぎて
花びらを散らしていく
速過ぎてとらえきれない
君はもうここにはいない
最初の二行の歌詞が映し出すのは、春の日の、晴れて澄み渡った光と空気。暖かさと冷たさがない交ぜになった風が吹いて、桜の花びらが舞う、そんな美しい情景だ。
なんて爽やかで、清々しくて、センチメンタルなんだろう。
だけどその次の一行が、さりげないようでいて、実はきわめて異様なセンテンスとなっている。
「速過ぎて とらえきれない」?
なぜこの人は、風に舞う無数の花びらを、とらえきろう、などとしているんだろう。(浦飯幽助か!)
無論ここに、花の舞う風景を美しく描写し、自身の心象における切なさをほのめかすという効果があるのは間違いない。
だけど、舞い散る桜の花びら総てを「とらえきる」なんてことは、最初から、できるはずがない。なのに彼は、そんなことを試みている。なぜなのか。
この人の心が、正常でないからだ。
「とらえきろう」とした無数の桜花たちは、彼の心にどう映ったのだろう。瞳孔には具体的な風景が写っている。だが、おそらく心象には、朧でありながら激しく渦巻くような、抽象画的なモザイクとして現前したのではないか。
言い換えれば、彼は明らかに幻覚を見ている。
陽射しが照らすものなら
何もかも嘘だから
うつろなこの僕の体
風に預けて
ただ踊るだけ
彼の心は、もうかなり孤独に侵食されている。「陽射しが照らすものならば/何もかも嘘だから」なんて、とんでもなく冒涜的なことを口走っている。それも、なんの根拠もなく。現実を否認するために、逆に世界の方をひっくり返してやろうという、支離滅裂な試みだ。
そして、この曲にも「君」の存在が示されている。僕はこの曲を聞くたびに、片想いの相手を思い浮かべた。苦しく、切なく、やるせない想いを、この曲はほんの一時だけ、甘く慰めてくれた。
目をつむると、やはり暖かな暗闇がある。そこには桜の花びらの一枚一枚が、ゆっくりと静かに舞っている。
古明地洋哉がつくった優しい「世界」を、確かに感じる。
濃厚な情感と、甘くも透明な哀切さに満ちた、メランコリックで素敵なナンバーだ。