夜よ、まだ明けないで
学生時代は、毎朝のように自慰行為に耽ってた。
文のしょっぱなから何を書いているんだ、という感じですが、当時の僕の目覚めには、とにもかくにも快感があったわけです。
働くようになってからは、迂闊にそんなことはできなくなった。目覚めに、しんどさを感じるようにもなった。
きっと睡眠時間も、大きく関係しているんだと思う。ベストはおそらく7時間だけど、頻繁に6時間以下になったりする。そんな朝はやはり辛い。
そんな時、僕の心に浮かぶのはこの歌詞だ。
夜よ まだ明けないで
もう少し 眠っていたいだけ
夜よ まだ明けないで
今はこうして…
『ささくれ』と題されたこの曲は、古明地洋哉の特別なナンバーになっている。シングルになっている訳でもないのに不思議だけれど、ひとつにはこの曲のPVが、非常に魅力的に仕上がっているということが挙げられると思う。
そして、メロディーの良さ、サビの高揚感というのが抜群だ。アルバム「hallelujah」における、代表的な一曲になっているとも言える。
上に抜粋したサビの、とてもストレートな思いの丈には、ストレートに共感してしまう。だけど、たぶんこの曲の構造はもっと複雑に、ねじれている。
全体の歌詞は、こんな風だ。
忘れるために 踊る人たち
忘れないでと 歌う人たち
つかの間の安らぎに溺れてもいいさ
絶え間ない不安に追われてもいい
小指のささくれが痛い
噛み千切ろうか、放っておこうか
決めかねているうちに
また夜が更けてしまった
夜よ まだ明けないで
もう少し 眠っていたいだけ
夜よ まだ明けないで
今はこうして…
冒頭にあるのは、預言者的な指摘。そして次の2行にあるのは、指導者的なアドバイス。メロディーは格好いい。歌唱も魅力的だ。
だけど連結部分からサビに至る独白に、見逃せないものがある。この曲の主人公によれば、本当にもう、ささいなことをして夜が更けていく訳です。小指のささくれって…。そんなもの気にしちゃって、それじゃあ、さっきまでの嘯(うそぶ)きは何だったの? という素朴な疑問に突き当たるわけです。
ご存知のように、古明地洋哉の曲に登場する主人公たちの多くは、幻覚を視るなり、幻聴を聴くなり、天使であったり(!)、銃を握ってたりと、おおよそまともではないのですが、『ささくれ』の主人公は、少なく見積もっても、神経症にかかってると考えるのが妥当なところでしょう。小指のささくれを噛み千切ろうかどうかで夜明け前まで考え続けるっていうのは、どう考えても正常ではないというか、間違っても遅刻の言い訳にはなりませんよね?
で、そういう視点で歌詞をはじめから読み返すと、
つかの間の安らぎに溺れてもいいさ
絶え間ない不安に追われてもいい
というこの2行に、とても冒涜的な意味が込められているのに気付きます。「つかの間の安らぎ」って…。それが、快楽であることは確かでしょうが、その対になっているものが「絶え間ない不安」…。
大体、呼びかけている対象が「夜」ですからね。
「夜」って、人じゃないし。自然だし。
だけど、あえてその「自然の法則」という厳粛なるものに呼びかけを行うところに、この歌の主人公の持つ冒涜性、背徳性というものが表れている。
終奏では、『嘆きの天使』と同じように、英語が連呼されている。その声には純粋なフィーリングが満ちている。
I wish be with you agein!
again!
again!
つまり、この曲も「自身の想い」それ自体を歌い上げ、幻覚的な光が飛び散ってきらめく様で終わっている。
それこそが、古明地洋哉の讃美するものだからです。
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