day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

Because The Night

 疾走感あふれるアコースティックギターの魅力的なストロークで始まるこの曲は、『想いが言葉に変わるとき』地方限定盤シングルの3曲目に収録されている。
 これは、アメリカを代表する女性ロックシンガー、パティ・スミスの代表曲を古明地洋哉がカヴァーしたものだ。



 元歌の素晴らしさは上の動画で味わえるが、比べてみると、古明地洋哉のバージョンが、オリジナルと全く異質のものになっているのに気がつく。そして、そこに古明地洋哉という人の持つ天分というのが、如何なく発揮されているのをはっきりと確認することができる。そこに僕は、ファンの一人として感動を覚える。

 
 見るとわかるが、オリジナルの「Because the night」のイントロは、ピアノの哀しげなアルペジオによって奏でられる。やがて始まるパティ・スミスによる歌唱も耽美的なものだ。そこには、時代性に根差した当時のロックシーンの匂いというものが否応なく感じられる。 パティ・スミスという人がパンクミュージシャンであり、詩人であり、芸術家でもあると説明されるのが納得できる。そこにいるのは一人の芸術家肌の表現者だ。

 
 それに対して、古明地洋哉バージョンの「Because the night」のイントロは、あまりにも疾走感に満ちている。カッティングギターの音色は、まるで風のようだ。そこに耽美はないし、哀感もない。あるのは、冷たさと温かさがないまぜになった孤独な風の感触だ。そして、涙ぐみたくなるような、一人ぼっちのヒロイズムとでも表現したくなる何かを、感じる。


 歌唱もやはり、パティ・スミスとは対照的だ。曲の序盤で、パティ・スミスが夜の夢幻的な世界へ聞き手を誘うのに対し、古明地洋哉はまるで性急にこの曲を進めていく。そして聞き終えた時、古明地バージョンの「Because the night」の美しさというのが、この序盤の部分にこそ表現されていたのだということに気づく。



 元歌では、耽美的な序盤から、やがて覚醒し、声音は訴えるようなトーンに代わって行く。そして盛り上がりへとつながる部分では、まるで混乱と混沌が一体となったような、大胆なビブラートが用いられている。
 それは歌の中の主人公にとっての最大の危機であると同時に、盛り上がりでのカタストロフを、いやがうえにも高潮させる効果を果たしている。


 一方の古明地バージョンでは、疾走を続けたままほぼ一本調子で連結部分へと達し、波長の数も足らなければ、最後は消え入るようなビブラートで、まるでなし崩し的に盛り上がりが訪れる。元歌を知っている人からすれば、あまりにも物足りないだろう、そのビブラート。


 そして盛り上がり。
 元歌におけるこの部分というのは、本当に感動的だ。恋人たちは、「夜」を味方につける。そうすることで、社会的に抑圧されている若い恋人たちの「世界」が立ち現れてくる。彼女は両手を力強く開きながら声を張り上げ、高らかにコーラスが加わる。そこでは、こんな歌詞が歌われている。


 because the night belongs to lovers
 because the night belongs to lust
 because the night belongs to lovers
 because the night belongs to us

 夜は恋人たちのものだから。
 夜は淫欲の中にあるのだから。
 夜は恋人たちのものだから。
 夜はそう、私たちものなのだから。


 「淫欲」という七つの大罪にも数えられる悪徳的なものと、「私たち」という抑圧された当事者を表す言葉が挿入されることで、この曲の盛り上がりは、一層激しく燃え上がるという構造を持っている。
 これを、古明地洋哉はどう料理したのか。
 彼は、こう歌ったのだ。


 because the night belongs to lovers
 because the night belongs to lovers
 because the night belongs to lovers
 because the night belongs to lover


 お気づきになったと思うが、古明地洋哉は、ここにまったくバリエーションを持たせなかった。つまり、とことん一本調子で、感動性などは眼中になく、まったく別の意匠からこの曲を歌い直した。
 古明地洋哉は、この曲の本質はもはや過ぎ去ったとでも言いたげに、淡々とこの、本来の盛り上がり部分を歌っていく。


 なぜなのか。


 それは、孤独の質に違いがあるからだ。
 古明地バージョンにおける「Because THE NIGHT」の主人公というのは、本当に孤高の孤独感を味わっている。社会から疎外された「だけ」のパティ・スミスバージョンの主人公とは、まったく異質な孤独感の表出だ。なぜなら、社会から疎外された主人公達には、恋人という救いがある。パティ・スミスは、疎外された者たちの「夜」における救済を歌い上げたのだった。
 古明地洋哉は、そんな彼らの欺瞞を暴く。


 古明地ヴァージョンだと、「恋人たち」の中に、主人公自身が含まれてはいない。「us」という代名詞を用いなかったことからも、それは明白である。つまり、曲中の主人公は傍観者としてそこにいる。恋人たちという、昼間の社会においては疎外され、孤独を抱えている者たちからさえも、彼は仲間はずれにされてしまっている。彼は本当にたった一人であり、それゆえに本物だ。
 逆に言えば、彼はたった一人、孤独を胸に抱え、「世界を疎外」している!


 そして、最後の一行で、古明地洋哉の声はファルセットする。
 そこで歌われること…。
 最後の一行では、それまで「lovers」と複数形で歌われていたものが、「lover」という単数形になっている。僕ははじめ、聞き間違いじゃないかと思って何度も聞きなおした。間違いなく、古明地洋哉は、「lover」と単数形で歌っている。しかも、二番の歌詞ではそれは現れてこない。たった一回だけ、幻聴のように現れる単数形の「恋人」。


 ここでも、古明地洋哉は、幻覚を見ていた。
 夜の中で世界を見つけた恋人たちを横目に、なお傍観者として孤独に疾走する古明地洋哉は、幻覚としての恋人を追っていた。
 なんと見事に、自身の世界観を表現しきられたのだろうか。


 僕は古明地洋哉が大好きだ。