day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

星の埋葬

灰と花

灰と花




 この曲は4分半にも及ぶ凄まじいアウトロを持っている。
 なぜこの凄まじさ、強烈さに、20代の僕は気付けなかったのだろう。どうして、30代も中盤に差し掛かろうという今になって、この曲をこんなに味わうことができるようになったのだろう。


 思い返すに、20代の僕にとって、古明地洋哉は「代弁者」であり、「ヘッドフォン越しの友人」であり、「僕自身(僕にとっての)」だった。だからこそ客観的に見ることなんてできなかったし、僕は古明地洋哉の曲に対して高揚し、興奮することを中心に求めていた。
 古明地洋哉という表現者は、甘美で魅力的なメロディーを紡ぎだすことについて、余りある力量を備ている。魅力的なメロディーは、聞き手を高揚させ、陶酔させる。そして、歌い手と一体となったような錯覚をもたらすという側面を持っている。僕もやはり、そうだった。そうやって、現実に疲弊し鬱屈した自分自身を慰めていた。
 古明地洋哉の曲には、ポップソングに見られない、常識から逸脱した言葉や、陰影や、豊富なイマジネーション(そのほとんどが幻覚的な)に満ちていた。そんな古明地洋哉の曲こそが、当時の僕の心を最も強くつかんだ。そしてこの10年というもの、その楽しみ方は変わっても、想いの強度は変わらずに続いている。


 この8分51秒ある大作は、『灰と花』の5曲目に収録されている。今になって分かるのは、古明地洋哉という表現者の、決して少なくはない表現の数々が、ゴッホやモネ、ドガといった印象派絵画の画家の作品が持つフィーリングと同質のものを持っているということだ。だから古明地洋哉の音楽には主題が強烈に表現されているし、土壌としての古典主義的、ロマン主義的な匂いが感じられる。(アートディレクションを担当していらっしゃった矢野真理の数々の抽象画も、やはりそれを裏付けているだろう)。


 この陰鬱なイントロで始まる3拍子の曲は、古明地洋哉が描いた、黒を圧倒的な基調として、ほんの僅かに、しかし切実に暖色が加えられた、重厚な抽象画だ。


 夜にまぎれて
 君の手を取って
 ガレキの街を歩いてゆく

 
 このまま何も聞こえない振りをして
 こんな世界に抱かれて朽ちていくの


 灯りをともしに家に帰ろう


 ここから、4分以上続くアウトロは、7音ずつ繰り返される神経症的なアコースティックギターのループと、3拍子を取り続ける不安なフォークギターの音色を中心に展開していく。それは家路へと向かう、疲れ果てて重い足取りのように聞こえてくる。
 そして、5分50秒を過ぎたところで、極度の疲労を連想させる粘りつくようなエレキギターの響きが加わり始める。それはちょうど7分にさしかかったところから、まるで警告音のように単弦のエレキ音が連続で96音続くというド外れた連なりにつながる。そこからは、「灯りをともしに」帰る家が一向に見えてこないだけでなく、むしろそんな暖かな場所に帰れる望みはないということの強烈な示唆が読み取れる。そして、「ガレキの街」を、体を引きずるように歩く主人公の姿と内面とが現前してくる。
 さらに7分30秒を過ぎると、正体不明の機械音が、激しく響き出す。それは何らかの破砕を連想させる。あるいは爆撃を。ともかく曲の主人公に対して、「世界」は次々と激しい追い打ちをかけてくる。
 彼は疲労困憊でフラフラになりながらも、「灯りをともしに家に帰ろう」と高らかに歌ったあの暖かな一瞬を反芻しつつ、夢か現かも判別できないガレキの街を歩いている。いや、幻ならばまだ救われている。彼は意識を取り戻すたびに、あるいは妄想から頭を上げるたびに、その歩みが間違いなく現実であることを思い知らされる。それは一人ぼっちの、信じられないような行進だ。
 そして、そんな彼に天空から、「hallelujha」のコーラスが、光のように降り注いでくる。それはあまりに幻覚的な光景だが、この曲に示された客観的な真実といえる。つまり、そういう印象派的な絵画が、ここに表現されている。


 そこにもやはり、古明地洋哉が讃美するものの本質が描き出されていることを、我々は確認することができる。