day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

欲望…

 幻のデビューシングル『欲望』を入手することができた。


 うれしい。


 11年前、24歳だった僕は、このシングルを新宿のタワーレコードで手に取りながら、ついに買うことなく帰ってしまったのだった。
 これまで、そのことをどんなに後悔してきたことか。
 amazonのマーケットプレイスでは一時、10万円近い値がついていた。そんなのを見ると、不純な気持ちも相まって、何度もフラッシュバックに見舞われたほどだ。「僕には縁がなかったんだろう」と諦めていただけに、今回、ヤフーオークションで手に入れることができたのは一層うれしい。


 年末年始の帰省から戻って、古明地さんのHPをたずねると、日記に更新があった。日記更新、それだけでもう心が弾むんだから、僕はやっぱり古明地さんのファンなんだな、とつくづく思う。

 
 『訳あって、ライヴが出来ていないけれど、必ず再開します。いろんなことがあるけれど、必ず。』
 古明地さんのこんな言葉は、ファンとして素直に嬉しく、また新鮮だった。
 古明地洋哉という表現者は、「孤独と芸術」という古典的なテーマを持ちながら、2000年代の日本という現代社会において非常に前衛的、挑発的な独自の世界観を展開してきた。そこには美学と向上心を持った若者としての、芸術至上主義的な趣もあった。
 それゆえに、日記の記述にも、倒錯的な、あるいは時にヒロイックなフィーリングが漂っていることが多かったと思う。
 以前にはよく拝見したのだが、日記によく未知の歌詞をアップしていらっしゃった。ファンに対しての、まるで前のめりな表現の提示。僕は目を走らせながら、そこにどんなメロディーがつくんだろう、早く聴きたい、という気持ちを募らせていたのを、よく覚えている。


 今回の言葉は、ファンである私たちに、表現者としてというよりも、人間としての古明地さんが届けてくれたものだと感じる。僕はそこに、ただ待ち続けるしかないファンとして、手ごたえのようなものを感じた。


 古明地洋哉というアーティストが原初的に抱えていた前衛性、挑発性については、今回、原点として古明地洋哉が11年前に提示した『欲望』シングルを手にとってみて、つくづくと感じた。「矢野真里」「弥吉淳二」という、我々ファンにはおなじみのクレジット。ジャケットは6つ折りの紙だ。そこには矢野真里さんのあのタッチがある。抽象画なのに、まるでアジテーションのようにも感じてしまう。


 古明地さんのライブに、また行ける日が楽しみだ。
 「about a boy」が無性に聴きたい。あんなにすばらしい曲を知らない人だらけなんだ、この世界は。
 「PRESTO」「灰と花」「メランコリー(Part1)」「daydream」…聴きたい曲が溢れてくる。ライブでのみ歌われ、音源化もされていない曲の数々。タイトルしか知らない曲もたくさんある。そして、何度も繰り返し聞いてきた、時に歌ってきた曲の数々。さらなる新曲も、おありだろう。はかない望みとは知りながらも、期待してしまう、幻となってしまった「daydream」の英語ヴァージョン…。
 『欲望』を手に入れて、すべてのCDを得ることができたのに、僕はいっそう、「欲望」している。どこまで行っても辿り着けない「欲望」の力学を感じる。「欲望」というものの、過程そのものとしての「タマネギの皮」性という、使い古されたパラドックスを、メタフィジカルに体感した思いだ。(俺は何を書いているんだろう…)


 何度も何度も聴いてきた『欲望』を、新たに聴いた。渦を巻くような薄暮の暗闇、訪れる快感、生温かなものの感触、美しい幻覚、繰り返されるため息、心地よい虚脱、世界への反発、そして求め続ける心。


 君を愛している


 そのモノローグに込められた根本的な矛盾。
 此処に鳴っているすべてが、あの頃、たった一人の部屋で僕が抱えていたものを、残酷なくらいに思い出させてくれる。