day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

Fuck You(God bless, you)


 3曲目の『Fuck You(God bless, you)』のイントロが始まった。
 ギターの音色が、とても美しい。
 なんという奏法なのかな。
 原曲とは、ずいぶん違う趣になっている。
 セカンドミニアルバム『讃美歌Ⅱ』の3曲目にあった曲だ。
 『讃美歌Ⅱ』を、僕はずいぶん聴いていなかったことを思い出した。
 ファンにとっては、どれも大切なアルバムだと思うが、僕にとってはひときわ特別な一枚だ。初めて買った古明地さんの作品だし、これほど繰り返し聴いた盤というのも、ほかにない気がする。



 『讃美歌Ⅱ』…。
 一曲目の『STARLIGHT』のダイナミックでスケールの大きい内省世界、二曲目の切実でひたむきで性急で自家中毒的で倒錯的なストーカー的独白『ジョン・メリック』(あの前奏のドラマチックなシンセサイザーの音色!)。
 このあまりにメロディアスで快感の大きい2曲の後に続くのが、『Fuck You(God bless please)』『Submission(Ten Commandments)』という、疲れた足取りのように遅い二曲だ。しかも、この二曲の間には、歌詞カード上に、音楽としては存在しない「鏡(reprise)」という「詩」がさしはさまれている。repriseとは、反復という意味であり、むろん『讃美歌Ⅰ』にある『鏡』という曲に反響する言葉の連なりになっている。
ところで『讃美歌Ⅰ』にも、同様に詩が一篇、収録されている。タイトルは「讃美歌」。そこに、こんなフレーズがある。「歪んだ心、よこしまな欲望、卑しい魂。それらを讃えるための12の歌」。『讃美歌Ⅰ』が6曲、『讃美歌Ⅱ』が6曲、合計で12曲。つまりこの2枚が、一つの連なりでありながら、意図的に二つにされた作品であるということが示されている。
 歌詞カードに「詩」を挿入するというのはかなり独特だが、『讃美歌Ⅰ』『讃美歌Ⅱ』のつくりというのも、また特徴的だ。表紙ジャケットの矢野真里さんの抽象画をめくると、歌詞カードの「裏」表紙が目にとびこんでくる。知らない人が開けたら、「間違いかな?」と思ってしまうだろう。僕も実際、初めて開けた時にはそう思った。だけど、その歌詞カードはしっかりとケース本体に貼り付けられている。まるで、この「逆」を擁護し、あるいは主張するかのような頑なさで。
 そして、そこには正気が疑われるような、呆けた笑みを浮かべる古明地洋哉のモノクロ写真がある。すごい人物写真だ。こんなアーティスト写真、ほかに見たことがない。
 一ページ目には「we are standing on the landing.」の一文。なんと訳せばいいのだろう。「私達は階段の頂上に立っている」。




 古明地さんのホームページに、今回のライブの前半のセットリストは、以下のようにアップされている。

 01.カーニヴァルの夜
 02. If You See Her Say Hello(bootleg version/Bob Dylanカヴァー)
 03. Fuck You(God bless, you)
 04. love song
 05. マルテ
 06. 欲望
 07. Just Like A Woman(Bob Dylanカヴァー)
 08. ライラックの庭
 09. 想いが言葉に変わるとき
 10. 孤独の音楽
(10曲目の『孤独の音楽』は、なんなのだろう…大好きな曲だが、僕はこの夜、聴いていないような気がするのですが…。幻?)




 『Fuck You(God bless please)』の原曲は、7分13秒ある。
 曲がカウントされると、耳鳴りのようなエフェクトの幽かな残響音が鳴って、はかなく消えた後、温かな響きのエフェクトギターのループが始まる。
その温かさは、自慰行為のあとの脱力感とともにある、あの温かさによく似ている。


   愛を探し 子供の落書きのような夢を見る


 この素敵な歌詞のあとで「yeah」と歌うCDの中の古明地さんのその声は、とても大人びている。大人なのだから大人びていて当たり前なのだが、逆にいえば、古明地さんの歌唱する声には、基本的に少年的なフィーリングがあるような気がする。あるいは思春期的な。



 Bless youという宗教的で、神聖な響きを持つ言葉に、この曲は『Fuck you』という言葉を並べた。讃美歌という純粋なものに、現代という時代に毒され、疲弊した自分の生活の中にある肯定しがたい何かが、並べて置いてある。バブル後の日本に、この曲は生まれた。この時代における、あまりにも長い思春期の心のありさま、そんなことを思う。

 

 黙示録のように、意味深長な内容が連ねられた『讃美歌2』の中から、古明地さんは『STARLIGHT』でもなく『ジョン・メリック』でもなく『bleach』でもなく、つまりそうした起伏が激しく、心を高揚させる曲ではなく、『Fuck You(God bless, you)』を歌われた。
当時、生々しく血が滴っていたこの歌を、2012年の古明地さんが歌うというのは、どういう意味があるのだろう。それを僕は考えていた。


 曲は結晶化され、あのころにリアルタイムであった痛みは、手に取って眺められる何かとしてそこにある。
 だが、古明地さんは、完全なノスタルジーとしてそれを歌ってはいない。曲のサブタイトルをさりげなく変え、ギターのアレンジに新しい意匠を施して、この曲を演奏された。



 このライブでの、この曲の前奏の美しい響きは、今も耳に残っている。
絶妙のギタープレイ。コードの中で、7th的な響きを持った主旋律(←こういう表現で合っているのか分かりませんが…)が、日々の中を泳ぐように、切なく展開していた。どこか、やさしい音色だ。そこには、苦味のようなものも混じっているような気がする。
 


 思えば、愛だの恋だのを無条件に歌う曲が世にあふれている中で、惨めな自部屋の中で自慰して過ごす日々のやりきれない悲しみや、未熟さゆえの過ち、恥辱、後悔、呵責、誇大妄想的で神経症的な心のありさまを真剣に歌って届けてくれたのは、古明地さんだけだった。
ストーカーの気持ちを歌ってくれたのは、古明地さんだけだった。
失恋の痛みでうずくまっていることを、自分のこととして歌ってくれるのは、古明地さんだけだった。


 16歳の修学旅行の最終日の朝。
 何かを感じたのだろうか、誰もいない帰りのバスに、僕は一番に乗り込んだ。その僕の前に、Pが現れた。静寂の中、入り口からやってきて僕の横に腰をおろしたPは、僕の顔を見ておもむろに口を開いた。
「おれ、Qさんと付き合うことになったから」
 僕が、その言葉をどのような衝撃で受け止めたのか。奴が、どのような気持ちでその言葉を僕に告げたのか。
「…Qさんは、それでいいって言ってるのか」
そんな愚かなことを、僕は言った。
「もちろん。いいって言ってる」
「そうか。それなら、どうしようが勝手だろ。俺に断ることじゃないよ」
 毎日、休み時間になるたびに、二人が向かい合い、仲良くするのを目で追いながら、僕が募らせていたものは、一体なんだったのか。
今度こそ、別々でいてほしい。別れていてほしい。反目しあってほしい。そんなふうに祈りながら、傷つきながら、まっすぐにQさんにも向かえず、Pにも立ち向かえなかった僕の弱さ。
 3月、クラス替えの日を迎え、教室から机を運び出すクラスメートたちの中で、僕は心からほっとしていた。理系に行ったPとも、同じ文系のQさんとも違うクラスになって、あたらしい教室に向かう僕は、救われたような気持ちだった。やっと終わる。やっと苦しい毎日が終わる。僕はそう思っていた。



 だが、その苦々しかった日々の痛みは、長く僕を苛んだ。
 
 
 実を言えば、あれから二十年も経った昨年の年末から、僕は急にまた、あの当時の苦しみに悶えさせられ始めたのだった。
 それは、長らく忘れていたはずの苦しみだった。
 なぜなのか分からなかったが、食事は喉を通らなくなり、仕事も手につかなくなった。鬱病かと思ったし、実際にそうだったのかもしれない。
 体重は1日に500gずつ減り、2ヶ月後には20キロも落ちていた。
 今でも緩やかに、その苦しみはぼくの体の中を流れている。


 今、僕は少しだけ思う。
 あの日々を、祝福してもいいのではないかと。
 「Fuck You」ばかりの日々の中にあったあの頃の自分の肩に、大丈夫だ、と手を置いてあげてもいいのではないかな、と。
  

 
 『Fuck You(God bless, you)』が終わり、軽いチューニングを行いながら、古明地さんが客席に話しかけられた
「ちなみに、今日初めて僕のライブ観るっていう人、いたりしますかね?」
 見回すと、3人ほどの手が挙がっていた。
「いた…! そっか(笑)。想定外だ」「じゃ、セットリスト変えようかな…」
 観客から笑いが起きる。古明地さんのディープな世界に浸りたいと思っている僕は、ほんのちょっぴり不安になりつつ、(もちろん、新しくライブに来た人がいることを喜びながら)、次の言葉を待った。
「すごい久しぶりのワンマンで、どういう曲をやろうかなと思って、自分のやりたい曲をやることが大事だと思うんだけど、せっかく観に来てくれる人がいて、なおかつ初めての人がいるとなると、俺が俺がとは言ってられない(笑)」




 そして『love song』 の美しいアルペジオが、爪弾かれた。


                              (つづく)