day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

古明地洋哉ワンマンライブ#2 2012.11.3②


 今回も、熱気に満ちたライブハウス「harness」。


 開演前、旅の疲れと酔いで、僕はしばらく眠っていました。
 

 古明地さんは、ご友人とおぼしき端正な男性とドアを潜ってこられました。15分遅れの19時15分、開演。
 オープニングのナンバーは『グロリア』。
 
 
 啓示的ともいえるフィーリングが醸し出されるのを、じんわりと感じました。
 こんな始まり方は、初めて。ファンとして、ものすごく新鮮さを感じました。


 
 キリスト教会「讃美歌」第106番。
 元曲のタイトルは「荒野の果てに」。本物の聖歌です。
 

 『讃美歌Ⅱ』(インディーズミニアルバム)という、ありったけの暗さ、深刻さ、そして、おぞましさすら漂う、とても正気とは思えない、危ない歌たちの末尾に、何かの間違いのように収録された本物のキャロル。


 90年代後半から2000年代にかけて、孤独と自己倒錯の沼の縁に座り込んだ、強迫神経症のモラトリアム青年が、たった一人の部屋で、暗い歌声を二重に重ねて孤独なハーモニーを奏で、MTRに録音し、それをそのまま収録した、という曰く付きのナンバー。


 ローファイな音質からは、部屋の孤独な生活感や臭い、脱力やけだるさ、付きまとう不安、根拠なき危うげな楽観、といったものまでもが伝わってきます。


 喘ぐような荒んだ歌唱が、しかしサビ部分に至ったとき、


 Gloria in excelsis Deo(いと高き処、神に栄光あれ)



 そこには間違いなくある種の峻厳さ、厳粛さが響き渡るのを、ファンは知っているはずです。


 ライブハウスでこの曲を聴くことになるとは…。
 意外でした。意外でありながら、なんと豊饒なフィーリングを喚起するのかと、僕は感服していました。


 当然のことのようですが、この曲を歌う古明地さんは、一人です。


 合わせ鏡のように、倒錯的に寄り添って重低音パートを歌ってくれる「もう一人の自分」は存在しません。


 『讃美歌2』に存在した、その影のような自己は、図らずも、MTRという現代器具、あるいはテクノロジーに支えられていたことに気づきます。


 もちろん、ライブハウスにだってMTRを持ち込むことはできるでしょう。
 しかし、古明地さんは、たった一人、カントリー風のアコースティックギターを抱えてステージに立っています。


 コンピューターによる複雑な音の加工を行い、ナンバーナインの服を身に纏っていた、最前衛の音楽家古明地洋哉は、いま「GRACE」と手書きされたシャツを、まるで誇るかのように着こなし、ギター一本、マイク一本で観客の前に立っています。それは最前衛の音楽づくりと、最前衛の芸術家としての生き方の続きである筈です。


 たとえばそこには、ギタープレイの錬磨という、徒手空拳の表現者としての向上があるのが感じられます。
 以前の日記で、the groovers藤井一彦さんのギタープレイへの敬意を書いていらっしゃったときから、それは感じられたことでした。


 その果実として、いま、僕らは古明地さんの、絶妙のギタープレイを聴くことができます。


 古明地さんが夜を歌う表現者、というか、真昼も夜に変えてしまう冒涜的な表現者であることは間違いありませんが、最新の古明地さんのギタープレイからは、黄昏の色や、セピア色をした風景が感じられます。
 言葉や理屈を通り越して、古明地さんの今の演奏には、そうしたものが表出してきているように思います。


 そして、それは古明地洋哉という人が表現者として歩む課程で手にした、確かなものだと、僕は感じています。


                                       (つづく)