古明地洋哉ワンマンライブ#2 2012.11.3③
前回も今回も、古明地さんは初期の曲を大胆にアレンジして歌われました。
そこに込められているものについて、僕は考えずにいられません。(特に、メジャーデビューアルバム『灰と花』に収められた曲たち…)
コードの中で何ともいえない、切なくほろ苦く寂しい輝きを放つ、セブンス的、あるいはマイナーセブンス的な旋律。
古明地洋哉ファン歴12年の、僕の直感を信じて言わせてもらえれば、それは、僕らが古明地さんの楽曲で慣れ親しんできた「夜」の感覚では、ありません。
そこにあるのは、今までにない「夕刻」の感覚です。
むろん「夕刻」を連想させるような歌詞は、一言もマイクに乗ってはいません。また、メロディーにも、そんなフィーリングはありません。
しかし、ギターによる前奏や間奏、終奏に、それがえも言わず演出されているのを、皆さんは感じなかったでしょうか。
そのときの古明地さんは、面ざしに、僕らが今までに見たこともない陰影をたたえていらっしゃます。
ライブハウスの椅子に座っていらっしゃるときの、のほほんとして無垢な表情とは打ってかわった、シリアスなその面持ちに、僕は、ハッとした程です。
今までだって、古明地さんは暗い歌を、シリアスに激しく歌われてきたわけですが、そこにはどこか「快感」の趣がありました。カタルシスと言えばいいのか、カタストロフィと言えばいいのか、あるいはもっと簡単にエクスタシーと言えばいいのか、シリアスを極めた絶頂に射精があるような感覚でした。
しかし、いまギターを一心不乱に弾奏する古明地さんの陰影から漂うのは、修行僧のようなフィーリングかもしれません。
前回のワンマンでは、『ライラックの庭』を演奏されているとき、僕は特にそれを感じました。
聴き浸りながら「どこか、ラテンミュージックの趣がある気がする」といったことを、僕は感じていたのを覚えています。
スパニッシュな、風化した土壁や煉瓦づみの街並み、その地下の酒場感、カルメンの踊り、行き場のない逃避行…。
そこにある何か、どうしようもなく、切ないもの…
僕の胸には、そんなイメージが交錯していました。
それは大傑作『PRESTO』で、古明地さんが僕らに届けてくれるものとは、まったく別の何かです。
あるいは、夜の部屋で若さのままにMTRに向かい合い、ヘッドフォンをして孤独に音楽を追求していた若者が作り、奏でたものとは、まったく別の次元にあるものだと思われます。
帰りの新幹線を降りて、私鉄への連絡通路を歩いているとき、「ああ、世界というのは一つしかないんだ」という思いが胸に去来してきました。
「世界」。
表現者・古明地洋哉が執拗に歌詞に織り込み、憎み、憧れ、反発し、時に花束を叩きつけ、時に自分勝手に定義しようとしてきたもの。
それは、たったひとつのものだ。
そんな、しごく当たり前の考えに、僕は、なぜだか急に頭の中がクリアーになったかのような、あるいは凄い大発見でもしたかのような気がして、なんだか妙な気持ちで、地下通路を歩き続けていました。
なぜそれが、いくつもあるかのような錯覚を、僕はしていたのでしょうか。
たぶん、僕は、僕の人生が無限であるような錯覚に捕らわれていたのです。
そして、その錯覚は依然として相当の強さで僕の中に生きています。
(つづく)