day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

bleach

 真冬の朝を ひとりで歩いた
 日射しがやけに痛みに満ち溢れ
 悪くない気分

 世界のキスを受けて
 涙はただ こぼれるだけ
 何もない
 ただ こころが揺れる
                  『bleach』
 

 ここに表現された、一人の青年の痛みの独白とともにある、官能的な全能感、生命力の発露、そして幻想性が混然一体となった絶妙さ。新進気鋭の芸術家であり、脱力系でなお情熱家、やさぐれてなお繊細な27歳の男子であった古明地洋哉が、世紀末に生み出した、キャッチーで荒んだチューン。


 『bleach』は、今回のワンマンライブ#2では前半のラスト前に歌われました。インディーズミニアルバム『讃美歌Ⅱ』でも、なぜかやはり、ラストの一曲前に収録されています。


 歌詞が始まってから10小節目に至って突然に現れるノイジーでクレイジーかつホットなエフェクトギターによる高揚感は、圧倒的です。
 そして、終奏での、ぼそぼそとした低い呟きのような「la la la…」の醒めきったスキャット。拗ねた少年のような、俯きがちな眼差しが想起されます。(体育会系の先輩がいたら「そんなla la laなら歌うなーっ!」みたいな罵声が飛んでくるでしょうね^^)
 歌詞カードにのみ存在し、歌われない「bleach your life(お前の人生を漂白しろ)」というメッセージ。まるで、幻聴を促すかのような行為。
 前衛的であり、現代的であり、古明地洋哉一流の歪つで孤独な抽象世界を、随所に確認することができます。


 それにしても、日射しが痛みに満ち溢れている、というのは、どういうことでしょうか。ある人にとっては心地よい朝の光が、この曲の主人公にとっては、痛みを感じるものとしてとらえられています。夜明けにおける異邦人としての自己認識を、ここに指摘できるでしょう。
 そして、痛みに満ちた朝における心中を「悪くない気分」と述懐します。
 痛みを、まるでシャワーのように浴びている主人公…。しかも実際に浴びているのは朝の光…。
 どう考えても精神に変調を来しているというか、静かに錯乱している、ともいえるでしょうし、正気にスポットを当てれば、強がっているとも解釈できるかもしれません。
 半分正気でありながら、間違いなくこの世ならざるものとしてこの曲の主人公は存在しています。


 しかし、盛り上がりに至って、そんな世界観がドラマチックな変化を見せます。ここでは「世界」というものが、表情なく立ちつくす主人公にキスをする、女性的な対象として表現されています。


 とめどない痛みの中で、逆にとめどない快楽を感じているような倒錯的な感覚が、ここにはあります。世界のキスを受けて涙をこぼす彼に漂う全能感。非常に肉感的、官能的なフィーリングが、幻想的なイメージとともに表現されています。
 湧きあがる制御しがたい生命力。あまりにも敏感すぎる心。そこへもって容赦なく傷つけられることによる、無際限で残酷なまでの痛み。∞≒0といった数式で表わされるような、無感覚の独白。


 「何もない ただ 心が揺れる」というフレーズは、失恋の傷が、においを放つほど化膿して痛み続けていた十数年前の僕にとっての、非常に大きな慰めでした。「痛くなんてない」「悲しくなんかない」「泣くのは、お前らにやられたからじゃない」という、強がり。虚勢。そんな僕の深層心理は、この歌詞にそっと巻きついて、蔓を伸ばしていきました。


 今回のワンマンライブ#2で、第一部のラスト前に歌われたこの曲は、奇しくも、第二部のラスト前の曲が『hello』だったのと、シンメトリーをなしています。


第一部 『bleach』→『PRESTO』
第二部 『hello』 →『真夜中のキャロル』


 つまり、第一部が、若さゆえの生命力と朝の痛みを歌いあげた初期作品から、激情を「確かな誰か」に届けようとする意志へという流れだとするなら、第二部は、自己を認識し、朝を歩み出そうとした主人公が、結局は深い真夜中に「あなた」に対する異常な「想い」を讃美するという、フラッシュバック的な終末を形成している…、こんな風に解釈できるかもしれません。


 そう考えてみると、歌われた数々のカバー曲が、知的な引用を含んだメッセージを、黙示録的で、ほとんどの人にとっては意味不明かつ誇大妄想的な、しかし後世の人にとっては強烈に確かな予言として遺した、哲学者ニーチェのような、どこまでも孤独な確信に満ちた、異常な思考による所産のようにも思えてきます。


        古明地洋哉ワンマンライブ#2 2012.11.3⑥