溜め息をハレルヤに変えて
ワンマンライブが終わって、はや二週間がたち、古明地さんはその間に5本ものライブに出演されているというのに、僕はいまだに9月22日(土)のレポートを作成しているわけです。ちょっともう、レポというにはあまりにもタイムオーバー感が強すぎて、肩身が狭いのですが、続けてもいいのでしょうか…。
しかも、昨日10月7日(日)のセットリストを拝見したところ、sessionの演目に、古明地洋哉ファンに人気抜群のナンバー『灰と花』が…!
ぐはっ…!
なんてことなの…。
『灰と花』のセッション…聴きたかった…。
『灰と花』はむろん、皆さん同様、僕も激好きな一曲。カーステレオで聴きながら、何度絶唱したか分かりません。この曲の快感度合いはホント、半端ないっすよ。
前奏のアコースティックギターによる、飛び込み台からプールの水面へと跳躍する、その踏み出しの瞬間のような、切羽詰まったストローク奏法の美しい音色。呼び起こされる感動。ハーモニカの苦しいほどに切ない響き。胸に熱い何かがわきあがってくる。
やばい。また聴きたくなってきた…!
はあ…。
すべてを聴くべく全国を行脚したい気持ちは、やまやまなのです。
僕は本気で、博多に行くことも、車中泊で柳川を訪れることも、今回の土日のライブに行くことも、思いつめるほどに考えていました。
そして、その財源も確保し、旅程も組んでいたのですが…。
いろいろな事情により、それらは見送られることになったのでした。
今回は、レポも中断して、この下世話で仕様もない繰り言を続けさせてもらってよろしいでしょうか?
ガソリン代 7000円
高速料金 8300円(軽自動車で行って浮かせました)
ホテル代 5420円(じゃらんポイント1200円分利用)
電車代 300円
初日昼食 300円…サービスエリアで餃子。水とライスは家から持参。(←涙)
初日夕食 620円…餃子の王将
二日目朝食 220円…コンビニおにぎり
二日目昼食 200円…メロンパン
ライブ料金 3500円
合計 25860円
これが、前回の旅の、僕の支出内訳です。
僕もそれなりには、働いているので、このくらい、とは言いたいのですが、運転による疲労もなかなかのもので、できれば新幹線で行きたい、そうすると交通費もさらに7000〜8000円アップ、といった、この感覚、分かって頂けるでしょうか?(古明地洋哉ライブ鑑賞ツアーとか、誰か企画してくれるとありがたいのですが。)
しかも、今回の宿!
おそろしかった、ホント。
大久保駅まで歩いて10分、駐車料金込みで5420円というのは、まあ破格だとは思うのですが、旅のくつろぎとか、癒しとか、そういった観点からは極北的に遠い地点にある宿でした。
僕が泊まったのは5階だったのですが、廊下の感覚が妙なんです。つきあたり正面にある窓、それがごく一般の民家のタイプ、つまり、普通に全開になる式のもので、柵も何もなく、こういうの、宿泊業で反則でしょう! 訳もなく、そんな願望もないのに身を乗り出したくなってきます。5階下の地面を見て、唾を飲み込みましたよ!
部屋のカギは、ガチャリと差し込むと物理的な金属留め金が動くタイプ。アパートかここは!
埃っぽい部屋に入ると、窓はやはり廊下と同じ無防備な全開タイプ。
この宿、あるいはこの部屋ジャストで、何らかの事件が起こってる…ひょっとしたら複数…。
そんな確信に襲われて、背筋がゾクリとなりました。
カーペットはぼろぼろで煙草の跡はあるわ、埃だらけだわ、何やらどす黒い染みがあるわ…ひっ…血痕…!?
ベッドの脇には、持ち運びタイプの目覚まし時計。そこにも、まるでそれがオプションであるかのように埃が積もっている。
テレビのリモコンの、ボタンとボタンの間にも埃。
テレビは、小型冷蔵庫の上に置かれている。
それ、テレビ台!?
トイレに行くと、古い浴室の臭い。
便器が妙に壁に近く、もたれて用を足していたのですが、二枚張りの上下の壁面と壁面の間の溝から、赤錆びた水が浸み出している…!
うわっ! 袖に染みがついちまう!
あわててトイレットペーパーでなぞったら、錆び水が付くのだけど、汚れそのものは溝に固くこびりついていて、根本的な清掃は不可能。
あきらめて逆側に体を倒して用をたす僕…。
冷房は、我々がよく知る壁の上部や天井にあるタイプではなく、なんと床に設置する見たこともないようなタイプ。温度調節は、強・中・弱・切の四段で、親指でスライドさせるという代物。3枚ある金属のファンは言い訳しようのない経年疲労のために震えて回らず、風はその隙間から無理に吹き上げてきている!
それにしても感じるのは、この部屋のただならぬ不穏な雰囲気。というか、妙に生温かいこの感じは何なの!
携帯で写真を撮ろうと思ったのですが、撮って変なものでも写っていたら、それこそ僕はもう、ここで寝るというもはや義務でしかないミッションを完遂するための、わずかな勇気も挫かれてしまう! テレビ電話なんてとんでもない! そんなの、自分の背後が怖くて見られないよ!
楽しいライブに向かうため、部屋を出たのですが、今度はフロントに誰もいない。呼んでも呼んでも、誰も出てこない! こんなホテル、あるの!?
数分待って、ピンときた僕は、二階の食堂へ。案の定、さっきフロントで金を払った暗い顔をしたおっさんが、ピックで氷を砕いていた。このホテル、あんた一人で切り盛りしてるのか!
「あのー、鍵、預けたいんですけど…」
「持ってってもらっていいですよ?!」
あからさまに嫌そうな顔をして言うおっさん。それはつまり「預かるのはめんどいから、あんた持ってって」という明確なメッセージなのだということが、言外に強烈に漂っている。
「あの、ところで、夜って門限があるんでしたっけ?」
「ああ。一時に閉まります」
「一時を過ぎると?」
「入れません」
最後の質問に対する答えが、あまりにタイミング良すぎて、この質問に対するこの理不尽な答えを、このおっさんは何百回、客に押し付けてきたのだろう、という思いが頭に去来し、僕は無言で、できれば持って行きたくないこのホテルのキーを、鞄に入れたのでした。
いやー、もう、二度と泊まりたくないホテルです。今度からは、もう少しグレードを上げたいな。はあ…。
今日のタイトル、何にしようかな…。
Fuck You(God bless, you)
3曲目の『Fuck You(God bless, you)』のイントロが始まった。
ギターの音色が、とても美しい。
なんという奏法なのかな。
原曲とは、ずいぶん違う趣になっている。
セカンドミニアルバム『讃美歌Ⅱ』の3曲目にあった曲だ。
『讃美歌Ⅱ』を、僕はずいぶん聴いていなかったことを思い出した。
ファンにとっては、どれも大切なアルバムだと思うが、僕にとってはひときわ特別な一枚だ。初めて買った古明地さんの作品だし、これほど繰り返し聴いた盤というのも、ほかにない気がする。
『讃美歌Ⅱ』…。
一曲目の『STARLIGHT』のダイナミックでスケールの大きい内省世界、二曲目の切実でひたむきで性急で自家中毒的で倒錯的なストーカー的独白『ジョン・メリック』(あの前奏のドラマチックなシンセサイザーの音色!)。
このあまりにメロディアスで快感の大きい2曲の後に続くのが、『Fuck You(God bless please)』『Submission(Ten Commandments)』という、疲れた足取りのように遅い二曲だ。しかも、この二曲の間には、歌詞カード上に、音楽としては存在しない「鏡(reprise)」という「詩」がさしはさまれている。repriseとは、反復という意味であり、むろん『讃美歌Ⅰ』にある『鏡』という曲に反響する言葉の連なりになっている。
ところで『讃美歌Ⅰ』にも、同様に詩が一篇、収録されている。タイトルは「讃美歌」。そこに、こんなフレーズがある。「歪んだ心、よこしまな欲望、卑しい魂。それらを讃えるための12の歌」。『讃美歌Ⅰ』が6曲、『讃美歌Ⅱ』が6曲、合計で12曲。つまりこの2枚が、一つの連なりでありながら、意図的に二つにされた作品であるということが示されている。
歌詞カードに「詩」を挿入するというのはかなり独特だが、『讃美歌Ⅰ』『讃美歌Ⅱ』のつくりというのも、また特徴的だ。表紙ジャケットの矢野真里さんの抽象画をめくると、歌詞カードの「裏」表紙が目にとびこんでくる。知らない人が開けたら、「間違いかな?」と思ってしまうだろう。僕も実際、初めて開けた時にはそう思った。だけど、その歌詞カードはしっかりとケース本体に貼り付けられている。まるで、この「逆」を擁護し、あるいは主張するかのような頑なさで。
そして、そこには正気が疑われるような、呆けた笑みを浮かべる古明地洋哉のモノクロ写真がある。すごい人物写真だ。こんなアーティスト写真、ほかに見たことがない。
一ページ目には「we are standing on the landing.」の一文。なんと訳せばいいのだろう。「私達は階段の頂上に立っている」。
古明地さんのホームページに、今回のライブの前半のセットリストは、以下のようにアップされている。
01.カーニヴァルの夜
02. If You See Her Say Hello(bootleg version/Bob Dylanカヴァー)
03. Fuck You(God bless, you)
04. love song
05. マルテ
06. 欲望
07. Just Like A Woman(Bob Dylanカヴァー)
08. ライラックの庭
09. 想いが言葉に変わるとき
10. 孤独の音楽
(10曲目の『孤独の音楽』は、なんなのだろう…大好きな曲だが、僕はこの夜、聴いていないような気がするのですが…。幻?)
『Fuck You(God bless please)』の原曲は、7分13秒ある。
曲がカウントされると、耳鳴りのようなエフェクトの幽かな残響音が鳴って、はかなく消えた後、温かな響きのエフェクトギターのループが始まる。
その温かさは、自慰行為のあとの脱力感とともにある、あの温かさによく似ている。
愛を探し 子供の落書きのような夢を見る
この素敵な歌詞のあとで「yeah」と歌うCDの中の古明地さんのその声は、とても大人びている。大人なのだから大人びていて当たり前なのだが、逆にいえば、古明地さんの歌唱する声には、基本的に少年的なフィーリングがあるような気がする。あるいは思春期的な。
Bless youという宗教的で、神聖な響きを持つ言葉に、この曲は『Fuck you』という言葉を並べた。讃美歌という純粋なものに、現代という時代に毒され、疲弊した自分の生活の中にある肯定しがたい何かが、並べて置いてある。バブル後の日本に、この曲は生まれた。この時代における、あまりにも長い思春期の心のありさま、そんなことを思う。
黙示録のように、意味深長な内容が連ねられた『讃美歌2』の中から、古明地さんは『STARLIGHT』でもなく『ジョン・メリック』でもなく『bleach』でもなく、つまりそうした起伏が激しく、心を高揚させる曲ではなく、『Fuck You(God bless, you)』を歌われた。
当時、生々しく血が滴っていたこの歌を、2012年の古明地さんが歌うというのは、どういう意味があるのだろう。それを僕は考えていた。
曲は結晶化され、あのころにリアルタイムであった痛みは、手に取って眺められる何かとしてそこにある。
だが、古明地さんは、完全なノスタルジーとしてそれを歌ってはいない。曲のサブタイトルをさりげなく変え、ギターのアレンジに新しい意匠を施して、この曲を演奏された。
このライブでの、この曲の前奏の美しい響きは、今も耳に残っている。
絶妙のギタープレイ。コードの中で、7th的な響きを持った主旋律(←こういう表現で合っているのか分かりませんが…)が、日々の中を泳ぐように、切なく展開していた。どこか、やさしい音色だ。そこには、苦味のようなものも混じっているような気がする。
思えば、愛だの恋だのを無条件に歌う曲が世にあふれている中で、惨めな自部屋の中で自慰して過ごす日々のやりきれない悲しみや、未熟さゆえの過ち、恥辱、後悔、呵責、誇大妄想的で神経症的な心のありさまを真剣に歌って届けてくれたのは、古明地さんだけだった。
ストーカーの気持ちを歌ってくれたのは、古明地さんだけだった。
失恋の痛みでうずくまっていることを、自分のこととして歌ってくれるのは、古明地さんだけだった。
16歳の修学旅行の最終日の朝。
何かを感じたのだろうか、誰もいない帰りのバスに、僕は一番に乗り込んだ。その僕の前に、Pが現れた。静寂の中、入り口からやってきて僕の横に腰をおろしたPは、僕の顔を見ておもむろに口を開いた。
「おれ、Qさんと付き合うことになったから」
僕が、その言葉をどのような衝撃で受け止めたのか。奴が、どのような気持ちでその言葉を僕に告げたのか。
「…Qさんは、それでいいって言ってるのか」
そんな愚かなことを、僕は言った。
「もちろん。いいって言ってる」
「そうか。それなら、どうしようが勝手だろ。俺に断ることじゃないよ」
毎日、休み時間になるたびに、二人が向かい合い、仲良くするのを目で追いながら、僕が募らせていたものは、一体なんだったのか。
今度こそ、別々でいてほしい。別れていてほしい。反目しあってほしい。そんなふうに祈りながら、傷つきながら、まっすぐにQさんにも向かえず、Pにも立ち向かえなかった僕の弱さ。
3月、クラス替えの日を迎え、教室から机を運び出すクラスメートたちの中で、僕は心からほっとしていた。理系に行ったPとも、同じ文系のQさんとも違うクラスになって、あたらしい教室に向かう僕は、救われたような気持ちだった。やっと終わる。やっと苦しい毎日が終わる。僕はそう思っていた。
だが、その苦々しかった日々の痛みは、長く僕を苛んだ。
実を言えば、あれから二十年も経った昨年の年末から、僕は急にまた、あの当時の苦しみに悶えさせられ始めたのだった。
それは、長らく忘れていたはずの苦しみだった。
なぜなのか分からなかったが、食事は喉を通らなくなり、仕事も手につかなくなった。鬱病かと思ったし、実際にそうだったのかもしれない。
体重は1日に500gずつ減り、2ヶ月後には20キロも落ちていた。
今でも緩やかに、その苦しみはぼくの体の中を流れている。
今、僕は少しだけ思う。
あの日々を、祝福してもいいのではないかと。
「Fuck You」ばかりの日々の中にあったあの頃の自分の肩に、大丈夫だ、と手を置いてあげてもいいのではないかな、と。
『Fuck You(God bless, you)』が終わり、軽いチューニングを行いながら、古明地さんが客席に話しかけられた
「ちなみに、今日初めて僕のライブ観るっていう人、いたりしますかね?」
見回すと、3人ほどの手が挙がっていた。
「いた…! そっか(笑)。想定外だ」「じゃ、セットリスト変えようかな…」
観客から笑いが起きる。古明地さんのディープな世界に浸りたいと思っている僕は、ほんのちょっぴり不安になりつつ、(もちろん、新しくライブに来た人がいることを喜びながら)、次の言葉を待った。
「すごい久しぶりのワンマンで、どういう曲をやろうかなと思って、自分のやりたい曲をやることが大事だと思うんだけど、せっかく観に来てくれる人がいて、なおかつ初めての人がいるとなると、俺が俺がとは言ってられない(笑)」
そして『love song』 の美しいアルペジオが、爪弾かれた。
(つづく)
(you're)lucky star
高速を乗り継いで往復12時間、トータル730kmの道のりを経て、僕は行ってきました。
阿佐ヶ谷harnessでの古明地洋哉ワンマンライブ。
うれしかった…。
一か月ほど、ずっと「9月22日(土)」を意識しながら過ごしてきて、おぼろな待ち遠しさが胸にあるのが当たり前になっていたものだから、当日が来たのが何だか信じられないような感覚さえあった。
朝の10時半に家を出て、天気のいい高速道路を東京へと向かった。
東京の街を、初めて車で走った。
安くて駅に近いのだけがとりえの宿に車を止めて、電車で阿佐ヶ谷に向かった。
中央線に乗るのは9年ぶりかな。
古明地さんのワンマンというと、僕にとっては2004年4月に大阪十三のライブハウスに見に行ったのが、最初で最後の経験だった。近藤智洋さんら、複数のアーティストとのツアーには、何度も参加しているけれど。(あの時買った古明地さんの詩集「結び目」は、どこへ行ってしまったのだろう)。
阿佐ヶ谷はまだ暑かった。
夕方の風情ある曇り空に架かる線路を、まばゆく中央線が走り抜けていく。
雑然と活気のある商店街を少し奥まで行くと、harnessはあった。
ファミレスの深夜バイトをしていたころ、毎日自転車で通っていた道のそばだった。
店内から、リハーサルの歌声が聞こえてくる。
「餃子の王将」で餃子と焼きそばを食べて、再び店の前に行くと、すでに何人もの人が待っていた。
harnessの中は、もう7年もCDをリリースしていないアーティストを待つ人々でごった返していた。小さなライブハウスとはいえ、あっという間に定員を満たしてキャンセル待ちを出してしまうほど、古明地洋哉という人は求められているんだ、という感慨が、何度も胸に起こった。
開演の19時を少し過ぎて、古明地さんが姿を現した。
始まるんだ…。
僕は唾を飲み込んだ。
チューニングの音もメロディアスに響く室内。
ビールの酔いが心地よく回ってきていた。
(つづく)
欲望…
幻のデビューシングル『欲望』を入手することができた。
うれしい。
11年前、24歳だった僕は、このシングルを新宿のタワーレコードで手に取りながら、ついに買うことなく帰ってしまったのだった。
これまで、そのことをどんなに後悔してきたことか。
amazonのマーケットプレイスでは一時、10万円近い値がついていた。そんなのを見ると、不純な気持ちも相まって、何度もフラッシュバックに見舞われたほどだ。「僕には縁がなかったんだろう」と諦めていただけに、今回、ヤフーオークションで手に入れることができたのは一層うれしい。
年末年始の帰省から戻って、古明地さんのHPをたずねると、日記に更新があった。日記更新、それだけでもう心が弾むんだから、僕はやっぱり古明地さんのファンなんだな、とつくづく思う。
『訳あって、ライヴが出来ていないけれど、必ず再開します。いろんなことがあるけれど、必ず。』
古明地さんのこんな言葉は、ファンとして素直に嬉しく、また新鮮だった。
古明地洋哉という表現者は、「孤独と芸術」という古典的なテーマを持ちながら、2000年代の日本という現代社会において非常に前衛的、挑発的な独自の世界観を展開してきた。そこには美学と向上心を持った若者としての、芸術至上主義的な趣もあった。
それゆえに、日記の記述にも、倒錯的な、あるいは時にヒロイックなフィーリングが漂っていることが多かったと思う。
以前にはよく拝見したのだが、日記によく未知の歌詞をアップしていらっしゃった。ファンに対しての、まるで前のめりな表現の提示。僕は目を走らせながら、そこにどんなメロディーがつくんだろう、早く聴きたい、という気持ちを募らせていたのを、よく覚えている。
今回の言葉は、ファンである私たちに、表現者としてというよりも、人間としての古明地さんが届けてくれたものだと感じる。僕はそこに、ただ待ち続けるしかないファンとして、手ごたえのようなものを感じた。
古明地洋哉というアーティストが原初的に抱えていた前衛性、挑発性については、今回、原点として古明地洋哉が11年前に提示した『欲望』シングルを手にとってみて、つくづくと感じた。「矢野真里」「弥吉淳二」という、我々ファンにはおなじみのクレジット。ジャケットは6つ折りの紙だ。そこには矢野真里さんのあのタッチがある。抽象画なのに、まるでアジテーションのようにも感じてしまう。
古明地さんのライブに、また行ける日が楽しみだ。
「about a boy」が無性に聴きたい。あんなにすばらしい曲を知らない人だらけなんだ、この世界は。
「PRESTO」「灰と花」「メランコリー(Part1)」「daydream」…聴きたい曲が溢れてくる。ライブでのみ歌われ、音源化もされていない曲の数々。タイトルしか知らない曲もたくさんある。そして、何度も繰り返し聞いてきた、時に歌ってきた曲の数々。さらなる新曲も、おありだろう。はかない望みとは知りながらも、期待してしまう、幻となってしまった「daydream」の英語ヴァージョン…。
『欲望』を手に入れて、すべてのCDを得ることができたのに、僕はいっそう、「欲望」している。どこまで行っても辿り着けない「欲望」の力学を感じる。「欲望」というものの、過程そのものとしての「タマネギの皮」性という、使い古されたパラドックスを、メタフィジカルに体感した思いだ。(俺は何を書いているんだろう…)
何度も何度も聴いてきた『欲望』を、新たに聴いた。渦を巻くような薄暮の暗闇、訪れる快感、生温かなものの感触、美しい幻覚、繰り返されるため息、心地よい虚脱、世界への反発、そして求め続ける心。
君を愛している
そのモノローグに込められた根本的な矛盾。
此処に鳴っているすべてが、あの頃、たった一人の部屋で僕が抱えていたものを、残酷なくらいに思い出させてくれる。
星の埋葬
- アーティスト: 古明地洋哉,弥吉淳二
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2004/11/25
- メディア: CD
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この曲は4分半にも及ぶ凄まじいアウトロを持っている。
なぜこの凄まじさ、強烈さに、20代の僕は気付けなかったのだろう。どうして、30代も中盤に差し掛かろうという今になって、この曲をこんなに味わうことができるようになったのだろう。
思い返すに、20代の僕にとって、古明地洋哉は「代弁者」であり、「ヘッドフォン越しの友人」であり、「僕自身(僕にとっての)」だった。だからこそ客観的に見ることなんてできなかったし、僕は古明地洋哉の曲に対して高揚し、興奮することを中心に求めていた。
古明地洋哉という表現者は、甘美で魅力的なメロディーを紡ぎだすことについて、余りある力量を備ている。魅力的なメロディーは、聞き手を高揚させ、陶酔させる。そして、歌い手と一体となったような錯覚をもたらすという側面を持っている。僕もやはり、そうだった。そうやって、現実に疲弊し鬱屈した自分自身を慰めていた。
古明地洋哉の曲には、ポップソングに見られない、常識から逸脱した言葉や、陰影や、豊富なイマジネーション(そのほとんどが幻覚的な)に満ちていた。そんな古明地洋哉の曲こそが、当時の僕の心を最も強くつかんだ。そしてこの10年というもの、その楽しみ方は変わっても、想いの強度は変わらずに続いている。
この8分51秒ある大作は、『灰と花』の5曲目に収録されている。今になって分かるのは、古明地洋哉という表現者の、決して少なくはない表現の数々が、ゴッホやモネ、ドガといった印象派絵画の画家の作品が持つフィーリングと同質のものを持っているということだ。だから古明地洋哉の音楽には主題が強烈に表現されているし、土壌としての古典主義的、ロマン主義的な匂いが感じられる。(アートディレクションを担当していらっしゃった矢野真理の数々の抽象画も、やはりそれを裏付けているだろう)。
この陰鬱なイントロで始まる3拍子の曲は、古明地洋哉が描いた、黒を圧倒的な基調として、ほんの僅かに、しかし切実に暖色が加えられた、重厚な抽象画だ。
夜にまぎれて
君の手を取って
ガレキの街を歩いてゆく
このまま何も聞こえない振りをして
こんな世界に抱かれて朽ちていくの
灯りをともしに家に帰ろう
ここから、4分以上続くアウトロは、7音ずつ繰り返される神経症的なアコースティックギターのループと、3拍子を取り続ける不安なフォークギターの音色を中心に展開していく。それは家路へと向かう、疲れ果てて重い足取りのように聞こえてくる。
そして、5分50秒を過ぎたところで、極度の疲労を連想させる粘りつくようなエレキギターの響きが加わり始める。それはちょうど7分にさしかかったところから、まるで警告音のように単弦のエレキ音が連続で96音続くというド外れた連なりにつながる。そこからは、「灯りをともしに」帰る家が一向に見えてこないだけでなく、むしろそんな暖かな場所に帰れる望みはないということの強烈な示唆が読み取れる。そして、「ガレキの街」を、体を引きずるように歩く主人公の姿と内面とが現前してくる。
さらに7分30秒を過ぎると、正体不明の機械音が、激しく響き出す。それは何らかの破砕を連想させる。あるいは爆撃を。ともかく曲の主人公に対して、「世界」は次々と激しい追い打ちをかけてくる。
彼は疲労困憊でフラフラになりながらも、「灯りをともしに家に帰ろう」と高らかに歌ったあの暖かな一瞬を反芻しつつ、夢か現かも判別できないガレキの街を歩いている。いや、幻ならばまだ救われている。彼は意識を取り戻すたびに、あるいは妄想から頭を上げるたびに、その歩みが間違いなく現実であることを思い知らされる。それは一人ぼっちの、信じられないような行進だ。
そして、そんな彼に天空から、「hallelujha」のコーラスが、光のように降り注いでくる。それはあまりに幻覚的な光景だが、この曲に示された客観的な真実といえる。つまり、そういう印象派的な絵画が、ここに表現されている。
そこにもやはり、古明地洋哉が讃美するものの本質が描き出されていることを、我々は確認することができる。
Because The Night
疾走感あふれるアコースティックギターの魅力的なストロークで始まるこの曲は、『想いが言葉に変わるとき』地方限定盤シングルの3曲目に収録されている。
これは、アメリカを代表する女性ロックシンガー、パティ・スミスの代表曲を古明地洋哉がカヴァーしたものだ。
元歌の素晴らしさは上の動画で味わえるが、比べてみると、古明地洋哉のバージョンが、オリジナルと全く異質のものになっているのに気がつく。そして、そこに古明地洋哉という人の持つ天分というのが、如何なく発揮されているのをはっきりと確認することができる。そこに僕は、ファンの一人として感動を覚える。
見るとわかるが、オリジナルの「Because the night」のイントロは、ピアノの哀しげなアルペジオによって奏でられる。やがて始まるパティ・スミスによる歌唱も耽美的なものだ。そこには、時代性に根差した当時のロックシーンの匂いというものが否応なく感じられる。 パティ・スミスという人がパンクミュージシャンであり、詩人であり、芸術家でもあると説明されるのが納得できる。そこにいるのは一人の芸術家肌の表現者だ。
それに対して、古明地洋哉バージョンの「Because the night」のイントロは、あまりにも疾走感に満ちている。カッティングギターの音色は、まるで風のようだ。そこに耽美はないし、哀感もない。あるのは、冷たさと温かさがないまぜになった孤独な風の感触だ。そして、涙ぐみたくなるような、一人ぼっちのヒロイズムとでも表現したくなる何かを、感じる。
歌唱もやはり、パティ・スミスとは対照的だ。曲の序盤で、パティ・スミスが夜の夢幻的な世界へ聞き手を誘うのに対し、古明地洋哉はまるで性急にこの曲を進めていく。そして聞き終えた時、古明地バージョンの「Because the night」の美しさというのが、この序盤の部分にこそ表現されていたのだということに気づく。
元歌では、耽美的な序盤から、やがて覚醒し、声音は訴えるようなトーンに代わって行く。そして盛り上がりへとつながる部分では、まるで混乱と混沌が一体となったような、大胆なビブラートが用いられている。
それは歌の中の主人公にとっての最大の危機であると同時に、盛り上がりでのカタストロフを、いやがうえにも高潮させる効果を果たしている。
一方の古明地バージョンでは、疾走を続けたままほぼ一本調子で連結部分へと達し、波長の数も足らなければ、最後は消え入るようなビブラートで、まるでなし崩し的に盛り上がりが訪れる。元歌を知っている人からすれば、あまりにも物足りないだろう、そのビブラート。
そして盛り上がり。
元歌におけるこの部分というのは、本当に感動的だ。恋人たちは、「夜」を味方につける。そうすることで、社会的に抑圧されている若い恋人たちの「世界」が立ち現れてくる。彼女は両手を力強く開きながら声を張り上げ、高らかにコーラスが加わる。そこでは、こんな歌詞が歌われている。
because the night belongs to lovers
because the night belongs to lust
because the night belongs to lovers
because the night belongs to us
夜は恋人たちのものだから。
夜は淫欲の中にあるのだから。
夜は恋人たちのものだから。
夜はそう、私たちものなのだから。
「淫欲」という七つの大罪にも数えられる悪徳的なものと、「私たち」という抑圧された当事者を表す言葉が挿入されることで、この曲の盛り上がりは、一層激しく燃え上がるという構造を持っている。
これを、古明地洋哉はどう料理したのか。
彼は、こう歌ったのだ。
because the night belongs to lovers
because the night belongs to lovers
because the night belongs to lovers
because the night belongs to lover
お気づきになったと思うが、古明地洋哉は、ここにまったくバリエーションを持たせなかった。つまり、とことん一本調子で、感動性などは眼中になく、まったく別の意匠からこの曲を歌い直した。
古明地洋哉は、この曲の本質はもはや過ぎ去ったとでも言いたげに、淡々とこの、本来の盛り上がり部分を歌っていく。
なぜなのか。
それは、孤独の質に違いがあるからだ。
古明地バージョンにおける「Because THE NIGHT」の主人公というのは、本当に孤高の孤独感を味わっている。社会から疎外された「だけ」のパティ・スミスバージョンの主人公とは、まったく異質な孤独感の表出だ。なぜなら、社会から疎外された主人公達には、恋人という救いがある。パティ・スミスは、疎外された者たちの「夜」における救済を歌い上げたのだった。
古明地洋哉は、そんな彼らの欺瞞を暴く。
古明地ヴァージョンだと、「恋人たち」の中に、主人公自身が含まれてはいない。「us」という代名詞を用いなかったことからも、それは明白である。つまり、曲中の主人公は傍観者としてそこにいる。恋人たちという、昼間の社会においては疎外され、孤独を抱えている者たちからさえも、彼は仲間はずれにされてしまっている。彼は本当にたった一人であり、それゆえに本物だ。
逆に言えば、彼はたった一人、孤独を胸に抱え、「世界を疎外」している!
そして、最後の一行で、古明地洋哉の声はファルセットする。
そこで歌われること…。
最後の一行では、それまで「lovers」と複数形で歌われていたものが、「lover」という単数形になっている。僕ははじめ、聞き間違いじゃないかと思って何度も聞きなおした。間違いなく、古明地洋哉は、「lover」と単数形で歌っている。しかも、二番の歌詞ではそれは現れてこない。たった一回だけ、幻聴のように現れる単数形の「恋人」。
ここでも、古明地洋哉は、幻覚を見ていた。
夜の中で世界を見つけた恋人たちを横目に、なお傍観者として孤独に疾走する古明地洋哉は、幻覚としての恋人を追っていた。
なんと見事に、自身の世界観を表現しきられたのだろうか。
僕は古明地洋哉が大好きだ。
夜よ、まだ明けないで
学生時代は、毎朝のように自慰行為に耽ってた。
文のしょっぱなから何を書いているんだ、という感じですが、当時の僕の目覚めには、とにもかくにも快感があったわけです。
働くようになってからは、迂闊にそんなことはできなくなった。目覚めに、しんどさを感じるようにもなった。
きっと睡眠時間も、大きく関係しているんだと思う。ベストはおそらく7時間だけど、頻繁に6時間以下になったりする。そんな朝はやはり辛い。
そんな時、僕の心に浮かぶのはこの歌詞だ。
夜よ まだ明けないで
もう少し 眠っていたいだけ
夜よ まだ明けないで
今はこうして…
『ささくれ』と題されたこの曲は、古明地洋哉の特別なナンバーになっている。シングルになっている訳でもないのに不思議だけれど、ひとつにはこの曲のPVが、非常に魅力的に仕上がっているということが挙げられると思う。
そして、メロディーの良さ、サビの高揚感というのが抜群だ。アルバム「hallelujah」における、代表的な一曲になっているとも言える。
上に抜粋したサビの、とてもストレートな思いの丈には、ストレートに共感してしまう。だけど、たぶんこの曲の構造はもっと複雑に、ねじれている。
全体の歌詞は、こんな風だ。
忘れるために 踊る人たち
忘れないでと 歌う人たち
つかの間の安らぎに溺れてもいいさ
絶え間ない不安に追われてもいい
小指のささくれが痛い
噛み千切ろうか、放っておこうか
決めかねているうちに
また夜が更けてしまった
夜よ まだ明けないで
もう少し 眠っていたいだけ
夜よ まだ明けないで
今はこうして…
冒頭にあるのは、預言者的な指摘。そして次の2行にあるのは、指導者的なアドバイス。メロディーは格好いい。歌唱も魅力的だ。
だけど連結部分からサビに至る独白に、見逃せないものがある。この曲の主人公によれば、本当にもう、ささいなことをして夜が更けていく訳です。小指のささくれって…。そんなもの気にしちゃって、それじゃあ、さっきまでの嘯(うそぶ)きは何だったの? という素朴な疑問に突き当たるわけです。
ご存知のように、古明地洋哉の曲に登場する主人公たちの多くは、幻覚を視るなり、幻聴を聴くなり、天使であったり(!)、銃を握ってたりと、おおよそまともではないのですが、『ささくれ』の主人公は、少なく見積もっても、神経症にかかってると考えるのが妥当なところでしょう。小指のささくれを噛み千切ろうかどうかで夜明け前まで考え続けるっていうのは、どう考えても正常ではないというか、間違っても遅刻の言い訳にはなりませんよね?
で、そういう視点で歌詞をはじめから読み返すと、
つかの間の安らぎに溺れてもいいさ
絶え間ない不安に追われてもいい
というこの2行に、とても冒涜的な意味が込められているのに気付きます。「つかの間の安らぎ」って…。それが、快楽であることは確かでしょうが、その対になっているものが「絶え間ない不安」…。
大体、呼びかけている対象が「夜」ですからね。
「夜」って、人じゃないし。自然だし。
だけど、あえてその「自然の法則」という厳粛なるものに呼びかけを行うところに、この歌の主人公の持つ冒涜性、背徳性というものが表れている。
終奏では、『嘆きの天使』と同じように、英語が連呼されている。その声には純粋なフィーリングが満ちている。
I wish be with you agein!
again!
again!
つまり、この曲も「自身の想い」それ自体を歌い上げ、幻覚的な光が飛び散ってきらめく様で終わっている。
それこそが、古明地洋哉の讃美するものだからです。
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