day/dreamer

敬愛する古明地洋哉さんをはじめ、音楽や芸術について書き綴っていきたいと思っています

unknown voices

 最近、なんとなく夜、アルコールを体に入れているのですが、きのうはその状態で、ひどい文章を書いてしまいました。支離滅裂で、直すのに時間がかかりました…。「よくあの状態でアップしたな」という思いに、苦笑するしかありませんでした。ただでさえ同義語を執拗に重ねる粘着的で冗長な文章になってしまう僕の癖が、おそろしく助長されてしまっていました。主語と述語がわけわかんないわ、修飾語が多すぎる上に、きちんとした受けの言葉もないわ、ねじれてるわ、誤字脱字のオンパレードだわ…読んで下さった方に申し訳ないです。
 今後は、なるたけ素面でアップします。といいつつ、今日はもう酔ってしまっているので、また明日あちゃ〜って思うのかな。


 古明地さんの新春のツアーが告知されましたね。
 すごい、すごい。
 うれしいな。(この小学生みたいな感想。言わんこっちゃない…)


 そして、ワンマンライブ#3が、もう4日後ですか。
 行ける人たち、いいなあ。
 コメント欄に、感想を書き込んで下さると、うれしいなあ。
 新曲、いっぱいやって下さるといいですね。
 ぼく、そんな気がするんですよ。
 いま、古明地さんは新曲の練習&ひょっとしたら直前まで創作・推敲をしていらっしゃるのかも、なんて。
 単なる勘なんですけどね。


追伸 このブログも、開設してから3年目で、ようやくはてなダイアリー市民(銅)の称号を得ることができました。ファンにすばらしい曲と楽しみを与え続けてくださる古明地さん、そして皆様のおかげです。ありがとうございました。
 

bleach

 真冬の朝を ひとりで歩いた
 日射しがやけに痛みに満ち溢れ
 悪くない気分

 世界のキスを受けて
 涙はただ こぼれるだけ
 何もない
 ただ こころが揺れる
                  『bleach』
 

 ここに表現された、一人の青年の痛みの独白とともにある、官能的な全能感、生命力の発露、そして幻想性が混然一体となった絶妙さ。新進気鋭の芸術家であり、脱力系でなお情熱家、やさぐれてなお繊細な27歳の男子であった古明地洋哉が、世紀末に生み出した、キャッチーで荒んだチューン。


 『bleach』は、今回のワンマンライブ#2では前半のラスト前に歌われました。インディーズミニアルバム『讃美歌Ⅱ』でも、なぜかやはり、ラストの一曲前に収録されています。


 歌詞が始まってから10小節目に至って突然に現れるノイジーでクレイジーかつホットなエフェクトギターによる高揚感は、圧倒的です。
 そして、終奏での、ぼそぼそとした低い呟きのような「la la la…」の醒めきったスキャット。拗ねた少年のような、俯きがちな眼差しが想起されます。(体育会系の先輩がいたら「そんなla la laなら歌うなーっ!」みたいな罵声が飛んでくるでしょうね^^)
 歌詞カードにのみ存在し、歌われない「bleach your life(お前の人生を漂白しろ)」というメッセージ。まるで、幻聴を促すかのような行為。
 前衛的であり、現代的であり、古明地洋哉一流の歪つで孤独な抽象世界を、随所に確認することができます。


 それにしても、日射しが痛みに満ち溢れている、というのは、どういうことでしょうか。ある人にとっては心地よい朝の光が、この曲の主人公にとっては、痛みを感じるものとしてとらえられています。夜明けにおける異邦人としての自己認識を、ここに指摘できるでしょう。
 そして、痛みに満ちた朝における心中を「悪くない気分」と述懐します。
 痛みを、まるでシャワーのように浴びている主人公…。しかも実際に浴びているのは朝の光…。
 どう考えても精神に変調を来しているというか、静かに錯乱している、ともいえるでしょうし、正気にスポットを当てれば、強がっているとも解釈できるかもしれません。
 半分正気でありながら、間違いなくこの世ならざるものとしてこの曲の主人公は存在しています。


 しかし、盛り上がりに至って、そんな世界観がドラマチックな変化を見せます。ここでは「世界」というものが、表情なく立ちつくす主人公にキスをする、女性的な対象として表現されています。


 とめどない痛みの中で、逆にとめどない快楽を感じているような倒錯的な感覚が、ここにはあります。世界のキスを受けて涙をこぼす彼に漂う全能感。非常に肉感的、官能的なフィーリングが、幻想的なイメージとともに表現されています。
 湧きあがる制御しがたい生命力。あまりにも敏感すぎる心。そこへもって容赦なく傷つけられることによる、無際限で残酷なまでの痛み。∞≒0といった数式で表わされるような、無感覚の独白。


 「何もない ただ 心が揺れる」というフレーズは、失恋の傷が、においを放つほど化膿して痛み続けていた十数年前の僕にとっての、非常に大きな慰めでした。「痛くなんてない」「悲しくなんかない」「泣くのは、お前らにやられたからじゃない」という、強がり。虚勢。そんな僕の深層心理は、この歌詞にそっと巻きついて、蔓を伸ばしていきました。


 今回のワンマンライブ#2で、第一部のラスト前に歌われたこの曲は、奇しくも、第二部のラスト前の曲が『hello』だったのと、シンメトリーをなしています。


第一部 『bleach』→『PRESTO』
第二部 『hello』 →『真夜中のキャロル』


 つまり、第一部が、若さゆえの生命力と朝の痛みを歌いあげた初期作品から、激情を「確かな誰か」に届けようとする意志へという流れだとするなら、第二部は、自己を認識し、朝を歩み出そうとした主人公が、結局は深い真夜中に「あなた」に対する異常な「想い」を讃美するという、フラッシュバック的な終末を形成している…、こんな風に解釈できるかもしれません。


 そう考えてみると、歌われた数々のカバー曲が、知的な引用を含んだメッセージを、黙示録的で、ほとんどの人にとっては意味不明かつ誇大妄想的な、しかし後世の人にとっては強烈に確かな予言として遺した、哲学者ニーチェのような、どこまでも孤独な確信に満ちた、異常な思考による所産のようにも思えてきます。


        古明地洋哉ワンマンライブ#2 2012.11.3⑥

hello


 ワンマンライブ#3、SOLD OUTの告知が出ましたね。(^^)


 すごいなあ。うれしいことです。

 
 ただ…、僕は行けない…んですよ…。仕事が…(泣)


 分かって頂けますか? 僕のこの複雑な心情。


 ファンとして、ソールドアウトは純粋に、うれしい限り。


 だけど僕は、外せない仕事…。


 その外せない仕事が、あり得ないことですが、万が一、奇跡的に早く終わって、東京に駆けつけることができたとしても、もう、そこには空席がないってことなんですよね…。


(あやふやな状況で、予約するわけにもいかなかったし…。)


 そんなこんなで、95%のうれしさと、5%の忸怩たる思いで、僕は「SOLD OUTしました」の文字を、しばらく見つめていたわけです。


(万が一の時には、立ち見でもいいので見せていただきたいなあ…。あっ。あれ、やろうかな。スケッチブックに「チケット譲って下さい」って書いて、体育座りするアレ。…う〜ん、あれを阿佐ヶ谷商店街の路地でやるのか…逆に嫌がらせですよね。みんな、楽しみにして来てるのに。やめとこう…) 



 #2のライブで古明地さんが歌ってくださったCD未収録曲は、『PRESTO』『hello』『真夜中のキャロル』の3曲。


 #1のライブが、前半にCD収録曲を10曲、後半にめくるめく未収録曲たちを立て続けに10曲、という構成だったのとは対照的です。
 

 つまり、ここには、全く違ったテーマが読み取れる筈ですが、共通しているのが、

『hello』

『真夜中のキャロル』

 という2曲の並びで、どちらのライブも締めくくられているということです。


 ともに、すばらしく感動的なナンバーですが、感動の質は、それぞれに異なるように思えます。


 『真夜中のキャロル』の主人公は、我々がよく親しんできた古明地ソングの主人公たちの眷属です。


 「いつでも少しも残さず食べてくれ」(『ジョン・メリック』)

 
 「I love your mistakes(君の過ちを愛す)」(『Submisson(Ten Commandment)』)

 
 「君のその心臓にキスしてもいいかい?」(『マルテ』)


 といった、想いが強すぎて、思考が常軌を逸してしまっている、ストーカー転じて逆に殉教者的な、崇高さすら感じる境地に到達した人物のナンバーです。


 一方の『hello』は、もう少しドキュメンタリーな一曲に思えました。


 この曲を聴きながら、僕は『bleach』を思い出していました。

 
 どちらの曲も、朝の街を歩いているからかもしれません。


 しかし、『bleach』の主人公が、世界にキスを受けて、涙をただこぼしていたのに対し、『hello』の主人公は、世界が「hello」と言うのを、聴くのです。どちらも、そこにある感覚を独創的な比喩で表現したものですが、前者が限度を超えた無感覚的な痛みに浸っているのに対し、『hello』にある朝の輝き、光のプリズムが一瞬に交錯して乱舞するような透明感あふれる情景に、聴く者は、胸を打たれずにはいられません。そこには、この曲の主人公の、確かな現実の認識、あるいは受容があります。まるで地球の自転を感じるかのような、スーパーダイナミックなスピード感さえあります。(曲自体は、ミドルテンポなのに、です)。


 ただ一人の青年が、朝の街に立っているだけのこと。しかしそこにあるドラマチックな感覚は、主人公自身の、朝を迎え、そこからはじまる時間を生きようとするたしかな意志が、あざやかに込められているからではないでしょうか。

   
                 (古明地洋哉ワンマンライブ#2 2012.11.3⑤)
 

古明地洋哉ワンマンライブ#2 2012.11.3④


 昨日の代官山でのセットリストがアップされましたね。

 
 「荒野と光」という、なんとも魅力的なタイトルの曲が、そこに記されていました。


 
 ま、まさか…純粋な新曲…。


 ちょっと! ちょっとちょっと!(ザ・タッチ風に)


 ワンマンライブでは披露してくださらなかった新曲を、そこで披露なさいますか?
(#2のテーマが、そういうところにはなかったのでしょうが…)


 それと同時に、来年1月5日(土)ワンマンライブ#4の告知が!
 なんとうれしいことでしょう。




 そして今年のライブは、12月9日(日)のワンマンで最後だとのこと。


 ワンマンライブ#3…。


 参加したい…

 
 のですが…


 その日は…仕事が…


 入ってしまって…いて…(泣)


 ぐっ…(涙)


 
 そこでは、2012年現在の古明地さんが作られた最新作(「荒野と光」という曲は、おそらくそうなのでしょう)が、奏でられるのでしょうか。
(#1、#2とも、未収録曲は演じてくださいましたが、それは、これまでのライブですでに披露された曲たちでした)。


 そうであってほしい…、ファンとして切実に望みながら、しかしそれを聞き逃さなければならないのが堪らない、という僕のこの複雑な気持ち、分かって頂けるでしょうか。




 それにしても、#2のライブでは、アンコールも含めてカバーが7曲も披露されました。ここ数年、古明地さんはカバーを重要なテーマとしていらっしゃるようです。


 今回、レディオヘッドトム・ヨークの弟であるアンディ・ヨークの「One In A Million 」という曲を披露して下さいました。すばらしかった…。


 さっそくYOU TUBEで検索して、何度も聴いています。この浮遊感。この切ない自由。たまらない名曲です。
 古明地さんがあのように魅力的に歌ってくださらなかったら、決して知ることはなかったでしょう。(トム・ヨークに弟がいることすら、知りませんでした。)



 ワンマン#1では、ボブ・ディランのカバーを何曲か演じられていましたが、#2ではそれを踏まえて「歌の伝承の意義」について、おっしゃっていました。


 曲をカバーするというのは、つまり歌を伝承する、歌い継ぐ、それを次代の聴き手やミュージシャンに広めるという面を持っている…。


 以前にボブ・ディランの伝記を読んだとき、同様の趣旨の発言があったのを覚えていたので、古明地さんは、ひょっとしてそういう意識をお持ちなのかも、とは思っていました。(ボブ・ディランを歌われるということには、その生きざまや、ミュージシャンとしての在り方への敬意もあるかもしれません。)




 そしてまた、積極的に偉大な先人の名曲をカバーするという古明地さんの行為には、御自身の作品たちへの想いも、あるような気がします。



 世に出回っている流行歌なるものなどは、微塵も寄せ付けぬ、凌駕してあまりある傑作をお作りであることへの自負。

 くだらない歌が、わがもの顔に出回っている世の中への反発。

 テレビや有線から否応なしに流れてくる、上っ面ばかりのラブソングの数々への軽蔑。(『PRESTO』を聴いたことがない人ばかりなんですよ、この世界は?! 以前からの古明地ファンで、まだお聴きでない方は、ぜひともこの名曲に、お会いになることをお勧めします。)


 そのような状況で、本物の歌がどのように歌い継がれていくのか。
 この資本主義社会において、消費物として扱われていく多くの歌たちの中で、自身の歌が、財産として伝わっていってほしい、という想いがあるのかもしれない…そんな風に思えます。



 それにしても、新曲を望むのはファンの人情。
 ワンマンライブ#4では、最新曲にも是非、出会いたいと切実に願う私でした。
  

古明地洋哉ワンマンライブ#2 2012.11.3③

 前回も今回も、古明地さんは初期の曲を大胆にアレンジして歌われました。


 そこに込められているものについて、僕は考えずにいられません。(特に、メジャーデビューアルバム『灰と花』に収められた曲たち…)


 コードの中で何ともいえない、切なくほろ苦く寂しい輝きを放つ、セブンス的、あるいはマイナーセブンス的な旋律。


 古明地洋哉ファン歴12年の、僕の直感を信じて言わせてもらえれば、それは、僕らが古明地さんの楽曲で慣れ親しんできた「夜」の感覚では、ありません。


 そこにあるのは、今までにない「夕刻」の感覚です。


 むろん「夕刻」を連想させるような歌詞は、一言もマイクに乗ってはいません。また、メロディーにも、そんなフィーリングはありません。


 しかし、ギターによる前奏や間奏、終奏に、それがえも言わず演出されているのを、皆さんは感じなかったでしょうか。


 そのときの古明地さんは、面ざしに、僕らが今までに見たこともない陰影をたたえていらっしゃます。
 ライブハウスの椅子に座っていらっしゃるときの、のほほんとして無垢な表情とは打ってかわった、シリアスなその面持ちに、僕は、ハッとした程です。


 今までだって、古明地さんは暗い歌を、シリアスに激しく歌われてきたわけですが、そこにはどこか「快感」の趣がありました。カタルシスと言えばいいのか、カタストロフィと言えばいいのか、あるいはもっと簡単にエクスタシーと言えばいいのか、シリアスを極めた絶頂に射精があるような感覚でした。


 しかし、いまギターを一心不乱に弾奏する古明地さんの陰影から漂うのは、修行僧のようなフィーリングかもしれません。


 前回のワンマンでは、『ライラックの庭』を演奏されているとき、僕は特にそれを感じました。
 聴き浸りながら「どこか、ラテンミュージックの趣がある気がする」といったことを、僕は感じていたのを覚えています。
 スパニッシュな、風化した土壁や煉瓦づみの街並み、その地下の酒場感、カルメンの踊り、行き場のない逃避行…。
 そこにある何か、どうしようもなく、切ないもの…


 僕の胸には、そんなイメージが交錯していました。


 それは大傑作『PRESTO』で、古明地さんが僕らに届けてくれるものとは、まったく別の何かです。
 あるいは、夜の部屋で若さのままにMTRに向かい合い、ヘッドフォンをして孤独に音楽を追求していた若者が作り、奏でたものとは、まったく別の次元にあるものだと思われます。


 帰りの新幹線を降りて、私鉄への連絡通路を歩いているとき、「ああ、世界というのは一つしかないんだ」という思いが胸に去来してきました。


 「世界」。


 表現者古明地洋哉が執拗に歌詞に織り込み、憎み、憧れ、反発し、時に花束を叩きつけ、時に自分勝手に定義しようとしてきたもの。


 それは、たったひとつのものだ。


 そんな、しごく当たり前の考えに、僕は、なぜだか急に頭の中がクリアーになったかのような、あるいは凄い大発見でもしたかのような気がして、なんだか妙な気持ちで、地下通路を歩き続けていました。


 なぜそれが、いくつもあるかのような錯覚を、僕はしていたのでしょうか。


 たぶん、僕は、僕の人生が無限であるような錯覚に捕らわれていたのです。


 そして、その錯覚は依然として相当の強さで僕の中に生きています。


                             (つづく)

古明地洋哉ワンマンライブ#2 2012.11.3②


 今回も、熱気に満ちたライブハウス「harness」。


 開演前、旅の疲れと酔いで、僕はしばらく眠っていました。
 

 古明地さんは、ご友人とおぼしき端正な男性とドアを潜ってこられました。15分遅れの19時15分、開演。
 オープニングのナンバーは『グロリア』。
 
 
 啓示的ともいえるフィーリングが醸し出されるのを、じんわりと感じました。
 こんな始まり方は、初めて。ファンとして、ものすごく新鮮さを感じました。


 
 キリスト教会「讃美歌」第106番。
 元曲のタイトルは「荒野の果てに」。本物の聖歌です。
 

 『讃美歌Ⅱ』(インディーズミニアルバム)という、ありったけの暗さ、深刻さ、そして、おぞましさすら漂う、とても正気とは思えない、危ない歌たちの末尾に、何かの間違いのように収録された本物のキャロル。


 90年代後半から2000年代にかけて、孤独と自己倒錯の沼の縁に座り込んだ、強迫神経症のモラトリアム青年が、たった一人の部屋で、暗い歌声を二重に重ねて孤独なハーモニーを奏で、MTRに録音し、それをそのまま収録した、という曰く付きのナンバー。


 ローファイな音質からは、部屋の孤独な生活感や臭い、脱力やけだるさ、付きまとう不安、根拠なき危うげな楽観、といったものまでもが伝わってきます。


 喘ぐような荒んだ歌唱が、しかしサビ部分に至ったとき、


 Gloria in excelsis Deo(いと高き処、神に栄光あれ)



 そこには間違いなくある種の峻厳さ、厳粛さが響き渡るのを、ファンは知っているはずです。


 ライブハウスでこの曲を聴くことになるとは…。
 意外でした。意外でありながら、なんと豊饒なフィーリングを喚起するのかと、僕は感服していました。


 当然のことのようですが、この曲を歌う古明地さんは、一人です。


 合わせ鏡のように、倒錯的に寄り添って重低音パートを歌ってくれる「もう一人の自分」は存在しません。


 『讃美歌2』に存在した、その影のような自己は、図らずも、MTRという現代器具、あるいはテクノロジーに支えられていたことに気づきます。


 もちろん、ライブハウスにだってMTRを持ち込むことはできるでしょう。
 しかし、古明地さんは、たった一人、カントリー風のアコースティックギターを抱えてステージに立っています。


 コンピューターによる複雑な音の加工を行い、ナンバーナインの服を身に纏っていた、最前衛の音楽家古明地洋哉は、いま「GRACE」と手書きされたシャツを、まるで誇るかのように着こなし、ギター一本、マイク一本で観客の前に立っています。それは最前衛の音楽づくりと、最前衛の芸術家としての生き方の続きである筈です。


 たとえばそこには、ギタープレイの錬磨という、徒手空拳の表現者としての向上があるのが感じられます。
 以前の日記で、the groovers藤井一彦さんのギタープレイへの敬意を書いていらっしゃったときから、それは感じられたことでした。


 その果実として、いま、僕らは古明地さんの、絶妙のギタープレイを聴くことができます。


 古明地さんが夜を歌う表現者、というか、真昼も夜に変えてしまう冒涜的な表現者であることは間違いありませんが、最新の古明地さんのギタープレイからは、黄昏の色や、セピア色をした風景が感じられます。
 言葉や理屈を通り越して、古明地さんの今の演奏には、そうしたものが表出してきているように思います。


 そして、それは古明地洋哉という人が表現者として歩む課程で手にした、確かなものだと、僕は感じています。


                                       (つづく)

古明地洋哉ワンマンライブ#2 2012.11.3①


 9・22のライブレポも終わらないうちに、11月3日(土)、古明地洋哉ワンマンライブ#2がやってきました。


 あの日(9・22)の第二部に演奏された、CD未収録作品群のすばらしさについて、なんとか書きたかったのですが、ついに書けないままでした。


 当初、僕は「PRESTO」という題の文章を書こうと思っていました。


 この曲を初めて聴いたのは、2009年2月。あれは梅田のライブハウス「ポテトキッド」でした。
 一度聞いただけで、『PRESTO』は、僕にとって特別なナンバーになりました。「すごい名曲だ」と思い、また「激情の曲だ」と思いました。聴き終わって、その場で心底から「もう一度!」と切望したほどです。


 『PRESTO』(急速なテンポで)という曲名のままに、聴き手の心を急速に、強く大きく揺さぶりかけてくる激しさをもった曲です。僕の記憶違いかもしれませんが、初めて聞いたときの、この曲のピッチは、やはり「PRESTO」していました。(そのように強く印象付けられただけかもしれませんが…)。


 いま、ミドルテンポで始まり、盛り上がりで否応なく加速する『PRESTO』は、心の激しさはそのままに、味わい深い一曲となっています。この曲に出会えて本当によかった、古明地洋哉のファンで本当によかった、と僕は思うのです。


 今回のライブ(11・3)も、前回(9・23)と同じく、二部構成でしたが、第一部のトリの曲として歌われたのが、この『PRESTO』でした。
 僕は、今回も、こみ上げる感情の波を抑えられませんでした。




 昼前に家を出て、東陽町の「R&Bホテル」(1泊・7100円)に着いたのは16時。


 バス、私鉄、新幹線、地下鉄と乗り継いで片道約4時間、往復全行程で3万5000円の旅です。
 新幹線の中では、ずっと読書していました。
 小さなお子さん2人を連れた親子連れが、通路を挟んだ3人席に座っていて、お父さんとお母さんは、泣く子を交互に抱き、ドアの向こうであやしていました。お母さんの方は見るからにぐったりして、一人になると泥のような疲れを宿して眠り込んでいます。
 

 東京駅に新幹線がゆっくりと入り、ずらりと並ぶJR清掃のピンクのユニフォームを着た女性たちを眺めながら、前回の車の旅を思い返し、去来するのは「新幹線はいいな…」という、しみじみした思い。


 ホテルの窓外には、大通りを行き来する車と、まばらな土曜の午後の人通り、向かいの緑が揺れる眺めがありました。


 清潔なホテルで、よかった…。
 清潔さ。
 ホテルにとってこれがなにをおいても大切なことなのだと、荷物を置きながら、またもやしみじみ感じていました。


 髪を洗い、髭を剃り、さっぱりとした気持ちで、夕の青白い東京の街並みへ。
 時間に余裕があったら中野のブロードウェイに寄ろうと思っていたのですが、東西線の改札を通ったときは、もう17時を過ぎていました。


 阿佐ヶ谷の空は、もう真っ黒な夜。
 9月の同じ時刻にここを訪れたときは、夕暮れの風情があったが、と思うと少し寂しくなりました。

 
 「鎌倉パスタ」か「ホープ軒」に入ろうかと思ったのですが、結局前回と同じ「餃子の王将」に入って、前回と同じ餃子と焼きそばを食べていました。今回は、生ビールも一杯だけ、胃に流し込んで。僕が酔うには、生ビール一杯で十分。なんだか、勝負前の牛みたいな気持ちになって、「harness」へと、ふらふら歩いて行きました。

                              (つづく)